それから数日後、コトノハの店内最奥のテーブルにホームセンターで買ってきたベッド用の天蓋が設置された。ここで魔女・ヨーコがオーストリアをはじめとする欧州諸国から買い付けたグッズを売ることが決まってからというもの、美咲はもちろん朋子も喜んで開店の準備を手伝った。
天蓋はシンプルに白いデザインを選んだので好きなように飾りつけられる。本場のさまざまなデコレーション類を、この日は朋子が一緒に取り付けていた。
「この青い花はもっと上のほうにお願い」
「そうですか? このピンクのと近いほうが、花と花が寂しくない気がします」
「なるほど。じゃあそうしましょう」
試行錯誤しながら二人が「魔女の店」を準備するのを、神谷は微笑ましく見ていた。サイフォンを磨き終えたので一息つこうと木製の椅子に腰かけた、そのとたんに店の電話が鳴ったのでやれやれと呟いて神谷は受話器を取った。
「お電話ありがとうございます。喫茶『コトノハ』です」
いつも通りほがらかに電話に出た神谷だったが、相手の発した言葉に表情が少しだけこわばった。
「はい?」
その口調に違和感を覚えたのは美咲だけでなかった。ヨーコがちらっと朋子を見るが、朋子は気づいていないようで楽しそうに飾り付けを続けている。
「失礼します」
神谷が不機嫌そうに電話を切ったので、ガトーショコラの仕上げにパウダーシュガーをふっていた美咲が思わず声をかけた。
「もしかして、ラーメン屋かそば屋と間違えられたんですか」
「いや、違うよ」
「え、間違い電話じゃないんですか」
「うん、まあ、間違い電話みたいなものさ」
「ふーん」
クッションの上で寝ていたマグがぱちりと目を覚まし、入口近くまで歩いていって、開けろといわんばかりに猫パンチをドアに繰り出しはじめたので、美咲は苦笑して作業の手を止めた。
「はいはい、散歩ね。今日は早いんだね」
マグはドアが開けられると少しの間、よく晴れた青空に金色の両目をじっと向けていたが、やがてたったかと軽やかに歩き出した。
結局のところ、自分には選択肢がないのだと透は感じていた。子どものころ、「なぜ勉強するのか?」と疑問を大人にぶつけたがる同級生たちの思考回路がまるで意味不明だった。確かに勉強というのは手段のひとつに過ぎないが、知識はないよりはあったほうがいい。理解できるものは理解しておいたほうがいい。それらはいい大学に入るためでもなければいい企業に就職するためでもなく、人生における選択肢と可能性を増やすためだ。
ずっとそう思って走ってきた。休むことを知らなかった。だからきっと、疲れてしまったのだと思う。だから休めと心身がSOSを上げたのだ。そう割り切れればいいものを、どうしても肝心の自分のこころがそれを許してくれない。「こんな自分ではだめだ」と叱咤する。自責の念は時折、本当に「声」として自分を攻撃してくることさえある。
「沢村さんは、真面目なんですね。偉いですよ」
整然とチェックマークの並んだペーパーを見て、駆け出しのソーシャルワーカーはそう褒めてきた。しかし透は返答に窮した。いいようのない憤りにも似た不快感を覚えたが、それを自分より年下の人間にぶつけたところで、きっと自分の傷が深くなるだけだと思い、ぐっと気持ちを飲み込んだ。目の前の人間は「専門職」で、自分は「そういう立場」の人間なのだから、わきまえなければならないのだろう。
「じゃあ、来週のスケジュールなんですが、作業所への見学が火曜日の11時。通院は木曜日の14時でよかったですよね」
「はい」
「今日はこれで失礼します。寒くなってきたから、風邪には気をつけてくださいね」
「ありがとうございました」
ソーシャルワーカーが去っていくと、透はどっと気疲れして敷きっぱなしの布団にもぐりこんだ。
こんな病気になってしまえば、今まで獲得してきた選択肢も可能性も、ありとあらゆるものが失われてしまう。そのことは透の生きることへのモチベーションを色褪せさせるのに十分すぎた。
こうして天井を見上げ続ける日々に変わりはないのだ。病院では黙っていても三食出てきたし、大人しくしていれば、そんなに悪い目にも遭わない。自尊心を心の底の底まで押しやってしまえば、あの場所は年中エアコンだってついていたし、なんなら話し相手もいた。そういう意味ではまだ入院していたほうがマシだったんじゃないだろうか、とまで思ってしまう。
ほどなくして安物の置時計が12時半を示した。人間はどうしたって腹が空く。それは、生きることに苦悩を抱える者といえ例外ではない。透は緩慢な動きで体を起こすと、やかんを水で満たしてコンロの火をつけた。六畳一間のアパートに取り付けられた窓ガラスは、少しの風でもカタカタと音を立てる。それが就寝時には入眠の妨げになるのだが、睡眠薬が効いてしまえばそれなりの睡眠時間を確保できるまでには、透の体調は回復をしている。
それでも、この空虚を癒すのは、薬でも時間でもないようだった。
カップ麺にお湯を注ぐとふわりと湯気があがる。少し伸びた前髪を湯気がとらえる。けれどそれもあっけなく消えていく、まるで戯れを知らない蝶のように。透はふっとため息をつくと、その場で両目を閉じた。
「修士論文」と書かれたタスキをかけた黒い影が自分を飲み込もうと追いかけてくる。息も絶え絶えにどうにか逃げ切れた、と思った。けれど、逃げ着いた先にはとっくに論文審査をパスした仲間たちがいて、こちらを指さしてはクスクスと笑っている。それと同時に、いくつもの数式が視界にちらついて鬱陶しい。
(――うるさい、うるさい、うるさい!)
気がつくと3分はとうに過ぎていて、お湯を吸い込みすぎた麺はすっかりのびてしまっていた。夢だ、あれはただの夢。そろそろ秋も過ぎ去るというのに、透の額には冷や汗がうっすらと浮かんでいた。目の前のカップ麺はどう見ても美味しそうではない。非常にもったいないとは思ったが、透はそれを三角コーナーに突っ込んだ。相変わらずカタカタと小窓が揺れている。
ふと外から入る陽光が陰ったので、もしかしたらまた雲が流れてきたのだろうかと視線をやると、窓のすぐ外に小さな影があった。その影が素早く移動したかと思いきや、直後に玄関のドアにかすかな物音がしたので、透はびっくりしてドアを開けた。するとそこには、あの日出会った三毛猫がちょこんと座っていて、「ナァーオ」などと鳴いてみせている。嫌な予感がして透がドアの表面を見てみると、そこには猫の爪で削られた跡がついていた。
「アッ、なんてことするんだよ!」
マグは「なにが?」といわんばかりに首を傾げた。
第五話 特別なやつ に続く