第五話 ジェラート

桃香は人混みを堪えながら、懸命に真一を探した。本来なら都会の混雑は桃香にはしんどいはずだが、幸い『豊島ふれあい福祉祭』はそれほどひどい混み具合でなかったために、絵美子も大丈夫と踏んだのだろう。

喫煙所に行ってみたが、それらしい顔は見当たらない。

顔というより、あの目、なのだ。

透き通っていて、どこか憂いを灯したような目。桃香はそこに惹かれていた。

その目が、どこにもない。桃香は呼吸を整えようと深呼吸しようとして、そこが喫煙所であることに間一髪で気づいて自分に激しいツッコミを入れ、それをやめた。少しだけ鼓動が早くなっている。

なんの、動悸だろう。

未だに人混みが怖いのか? それとも……。

桃香がふと視線を変えると、別のブースでおどけているピエロの格好をした男性と目が合った。合ってしまった。なんだか、妙な、予感。


真一は来ていたブルゾンのポケットから頓服の液剤を取り出すと、封を切って一気に飲んだ。何度飲んでも慣れない、強烈な苦味。良薬は口に苦しというが、果たしてこれが「良」薬なのかは真一にはよくわからなかった。だが、飲めばなんとか、現実にしがみついていられる。しかし、あくまで対処療法だ。特効薬など、きっとどこにも、存在しない。

液剤の効きは早く、段々と真一の認識する世界は明瞭になってきた。祭のガヤガヤした声や音、相変わらず陽気なBGM、はしゃぐ子どもらの歓声。すべてがなんでもなかった。何も、誰も、自分を否定しない。そんなこと、当たり前にわかっているはずなのに、わからなくなってしまうことがある。殊に、さっきのような場面はまるで事故だ。不運だったのだ、たぶん、それだけ。

(忘れよう。早く戻らなきゃ兵藤さんに心配かけちゃうし……。)

「大丈夫ですか?」

真一の寄りかかっていたテントのブースに入っていた福祉関係と思しき団体の人が声をかけてきた。真一は慌てて取り繕う。

「あ、ごめんなさい。ご迷惑をおかけしました」

そういってテントから離れた。それから、ふらふらと歩きだした。風船を持った小さな子たちが楽しそうにすれ違っていく。走り去るその姿は、まるでゴムボールのように元気に弾んでいる。

自分にもあんな時代があったのだろうか。よく、覚えていない。物心ついた時から、一緒にいたのは愛犬と絵本だったように思う。あまり外で遊んだ記憶はない。

キャッキャと笑いながら母親と一緒にすれ違う子もいた。そういえば、最後に声を出して笑ったのはいつだろう。

考えれば虚しくなる。しかし、人間はそう簡単には自分の思考をコントロールできない。自分のブースに戻るために、真一はその虚しい思考に心を浸しながら歩いていた。

「うちのは一級品ですよ!」

急に呼び込みをされて、真一はびっくりして顔を上げた。

「お兄さん! 手作りジェラートはいかが?」

この寒いのに、ジェラート?

真一が軽く会釈して過ぎ去ろうとすると、呼び込みをしているピエロの格好をした男性が、やや強引に真一に試食を渡してきた。

「溶けちゃいますよ! 早く早く〜」

真一が困り顔で突っ立っていると、そのブースの奥から、

「あ!」

と声がした。

「いた! いたー!」

桃香だ。桃香がブースの奥で、試食のジェラートを食べながらこちらに手を振っている。

ピエロはハイテンションで声をあげた。

「あら、あらあらお知り合い? 良かった! ほら、お兄さんもこっち来て」
「え、え」

真一には何のことだかわからない。当然だ。真一は桃香を知らない。もっとも、桃香も真一のことは何も知らないのだが。

ピエロは手際よく説明を始める。

「今のシーズンはカボチャがオススメ! お嬢さんが食べているのは、ワタクシ一押しの洋ナシ」
「あ、美味しいです」

桃香はへにゃっと笑う。真一は事態が飲み込めなくて戸惑ったが、しかし手にしたジェラートがどんどん溶けていくので、仕方なく一口食べた。

「あ、美味しい」
「でしょう、そうでしょう!」

ピエロはノリノリだ。

「あのー」

桃香は手を挙げて、

「ピエロさん、カボチャと洋ナシとバニラとチョコ、ください」
「はい、ありがとうね!」

ピエロは調子よく「注文入りましたー」と言いながら去っていった。

「良かった、見つかって」

胸をなでおろす桃香に、真一は首を少しだけひねって、

「すみません……どういうことでしょうか」
「あ、こちらこそすみません。あなたを探していました」
「僕を?」
「戻りが遅いので、兵藤さんの代わりに」

なぜだかよくわからないが、兵藤さんに頼まれたのだろうか、この女性は自分を探していたと言うが、

「ジェラート食べてませんでしたか……?」

痛いところを突かれて、桃香はまたしてもへにゃっと笑った。

「はい!」

なんとまぁ、素直なのだろう。真一もクスッと笑った。

「心配かけました。商品が来たら戻りましょう」


「すごーい! 完売なんて初めてよ!」

お客さんを見送った直後、兵藤さんが感激の声を上げた。絵美子はニヤッと笑い、「一応、プロフェッショナルなんで」と言って親指をビシッと立てた。

祭の終了時間までまだ時間があるが、商品がなくなってはしょうがない。

「早めに撤収かしらねー。にしても、困ったなぁ。安田くんも桃香さんも、まだ戻っていないし……」

売上の千円札を数え始めた絵美子の目が、黒猫のようにキラーンと光った。

「撤収、しましょう。一刻も早く」
「え? でも……」
「大丈夫です」


ややあって桃香と真一がブースに戻ると、きれいさっぱりとテントは折りたたまれていて、見覚えのある猫の付箋がテント布の上にぺたりと貼られていた。間違いなく、絵美子の文字だ。

『あとはごゆっくり!』

「え……」

目が点になる二人。

「せっかく、ジェラート4人分買ったのにー!!」
「問題はそこじゃない気がしますが……」

真一のツッコミが、晩秋の空っ風にさらわれて、軽やかに転がった。

第六話 江古田 に続く