第五話 特別なやつ

朋子はまだコーヒーにミルクを入れないと飲みきれない。神谷の淹れる一杯を求めてやってくるファンが多いことは知っているが、ブラックではどうしても苦みや酸味が強く感じられてしまうのだ。それをよく知っている神谷は、ランチの混雑時を頑張ったねぎらいとして、ほどよく温めたミルクを朋子に差し出した。

「ありがとうございます」

朋子の両手にちょうど収まるサイズの愛らしいカップに入ったミルクが、表面に薄い膜を張っている。椅子に腰かけた朋子は、しばしそれを見つめた。ゆっくりくるくると回っている。ほっ、と息を吹きかけるとそれは回転速度を増して、いつまでもカップの中で踊った。

外の寒さは徐々にだが確実に厳しさを増し、空気もかなり乾燥しているようだ。朋子の小さな手には数か所、あかぎれができていた。左手小指のそれが特に痛んだが、朋子は神谷や美咲には弱音を吐かなかった。否、言えなかった。遠慮がそうさせているのだろう。「ここに居させてもらっているから、わがままを言ってはいけない」という気持ちが先に立ってしまうのだ。

少しだけ膨れて赤くなった部分をかばうように右手で押さえていると、朋子の目の前に差し出された手があった。

「えっ」

見上げると、ヨーコがウインクをした。

「お疲れ様」
「ありがとうございます」

ヨーコはにやりと笑って、「私の手に触れてごらん」といった。朋子はためらいがちに、しかしどこか吸い寄せられるようにヨーコの白い手に触れた。

「わあ、すべすべ」
「でしょう。直輸入のハンドクリームを愛用しているから」

そういってヨーコが指さしたのは、間借りしてオープンした「魔女のお店」だ。

「えっ、まさか営業ですか?」

朋子が真剣に問うと、ヨーコは声を出して笑った。

「高校生から儲けようだなんて思っちゃいないわよ」
「でも……」
「せっかくだから『愛用者の声』を書いてもらいたくて」
「え?」
「その働き者の手にてきめんに効くって証明されたら、このポップにイニシャルでもいいから感想を書いてほしいの」

朋子は表情を緩めた。よかった、この人も私のことを「おかしい」だとか「ずれてる」だとかいって馬鹿にしたりしない、と。

ヨーコはジャスミンの香りのするハンドクリームを朋子の手にひと塗りした。朋子がそれを自分でひろげると、ふわりと柔らかい香りとともにみるみる潤いが手に戻っていくのを感じた。

「すごい……!」

ヨーコは嬉しそうにウインクをした。そんな様子を見て、神谷と美咲も顔を見合わせて微笑んだ。

ところが、そんな穏やかな雰囲気は突然の来客によって一変することとなる。


街は少しずつクリスマスの様相を呈している。コンビニなどの入口には一足早くおせち料理のパンフレットまで置かれており、季節がまるでスタッカートのようにせっかちに自分を置いてどこか遠くへいってしまうように、透には感じられた。

幼い子どもと手を繋いで歩く若い母親とすれ違った。もうほとんど覚えていないけれど、自分もああして母に連れられたことがあったのだろう。すっかり冷えた指先を、今は自分で温めるほかない。寂しさより、やはり虚しさが勝ってしまう。

突然現れた不可思議な三毛猫は、自分を導くように何度も振り返りながら歩いてゆく。人々の往来で見失ったかと思えば向こうから顔を出してくる。

(――変なやつ)

商店街にはクリスマスソングに紛れて、流行歌をインストゥルメンタルにアレンジした曲が流れていた。透は流行歌をよく知らない。そのやや速めのアップビートに、どこか急かされるような心持ちで懸命に三毛猫の後を追った。


いつもより強めにドアベルが鳴ったかと思いきや、神谷が「いらっしゃいませ」と言い終えるより早く、やってきた客はカウンターまで早足で寄ってきてそのまま腰かけ、「あーもう!」と叫んで突っ伏した。

「香月さん、どうしたんですか」

鬼のような形相でやってきた香月に対し、美咲はおそるおそる声をかけた。

「どうもこうもない。もう嫌。嫌だーっ」

神谷はなおも深く質問しようとする美咲を制し、黙って頷いてからそっとグラスに入った水を差しだした。それを一気飲みにする香月は、うめくような声でオーダーした。

「マスター。『特別なやつ』お願い」
「はい、了解したよ」
「うわあぁぁん」

子どものように泣きじゃくる香月に、朋子が寄ってきてヨーコからもらったハンドクリームを見せた。

「香月さん、手が荒れてる」
「それは職業柄しょうがないっ」
「気持ちも荒れてる」
「朋子ちゃん! 朋子ちゃんは間違っても記念日を間違えるような男とはつきあったらだめだよ!」
「え、まさか」
「別れた」
「ああ……」

神谷が特盛のナポリタンを作りはじめた。美咲も察して、香月お気に入りのチーズタルトに添えるクリームの準備を始める。

「これ、とても効くから塗ってみてください」

朋子が差し出したハンドクリームを、げっそりとした表情で受け取った香月だったが、ふたを開けて香りをかぐと「おっ」と感嘆の声をあげた。

「すごい、めっちゃ香るのにくどくない。べたつかないし、すーっとひろがるんだね。手に馴染むわー」
「よかったらおひとつ、いかがですか」
「ん? ここで売ってるの?」

香月がふり返ると、テーブル席が一つ、白いベールに覆われているので彼女は首をかしげた。

「なにあれ?」
「魔女のお店!」
「えっ、この前の?」
「そうです!」

朋子ははじけるような笑顔を向けた。香月がベールの中に顔を突っ込むと、ヨーコが悠然とブレンドハーブティーを飲んでいた。

「失恋に特効薬はないわよ」
「知ってるわ!」
「でもね」

ヨーコはディスプレイされている商品の中からラベンダーのポプリを指さした。

「リラックスによく効くバーブとかをその人にあわせて調合できるのよ」

香月は興味深げに魔女のお店に並んだ商品を眺めた。ハーブティーの茶葉にポプリ、大小のオーナメントに天然石のアクセサリー類、文房具やポストカードもラインナップされている。

背後から朋子が、「『特別な日のメニュー』、できましたよ」と声をかけても、香月は食い入るようにじっとそれらを見つめていた。

新規に来客があったので、神谷が今度こそ「いらっしゃいませ」というと、美咲「あっ」と声を出した。

「どうしたの? 美咲ちゃん」
「また来てくれたんですね!」
「ん、お知り合い?」

やってきたのは、マグに導かれるまま歩き続けてすっかり疲れた表情の透だった。

「あの、すみません。この猫がどうしても来いって……」

言いかけて、透は自分がおかしなことを言っていると思い、口をつぐんだ。だが美咲が笑顔で「そうですか、よかった!」と返したので、透は少し面食らった。

カウンターに座るように神谷が促すと、透は「すみません」を枕詞のように言ってから席に着いた。定位置のクッションに身を沈めたマグに美咲が「マグ~、えらいぞ~」というが、マグは当然とばかりすまし顔である。

「この前のお礼をしたかったんです。試食してくれたお礼。といっても、お返しできるのはコトノハのメニューくらいなんですが。あ、今ってお腹空いてます?」

美咲に返答したのは透の口ではなくお腹の音だった。神谷はにこりと笑い、「何にします? おススメはナポリタンとガトーショコラです」とメニューブックを渡した。透はどう返答したらいいかわからず、一種の気恥ずかしさも手伝って、うつむいてしまった。

そんな透に追い討ちをかけたのは、彼に気づいた香月の一言だった。

「あれ? もしかして沢村くん?」

第六話 許可をください に続く