第六話 江古田

二人はしばし茫然としていたが、桃香が突然、

「ジェラート、溶けちゃう!」

と言って真一にカボチャ味とバニラ味を半ば押し付けるように渡した。

「私は洋ナシとチョコを担当します」
「え、え?」
「早く!」

二人は近くにあった花壇の淵に腰掛け、必死にジェラートを食べ出した。元々少食な真一にとっては苦行に近かった。

二人並んで四人分のジェラートを頬張る姿は、どこか滑稽だけど微笑ましく、桃香には感じられた。

スイーツならば女子の方が慣れているせいか、あっという間に桃香は二つを平らげた。横を見ると、まだ一つ目で苦戦している真一がいる。手つかずのバニラ味が溶け出していた。

「それ、ください」
「えっ、三つめ!?」

桃香はにっこり微笑んだ。


「スミマセン……」

桃香はすっかりしょげて、喫茶店の椅子に座っている。

「いえいえ、気に病まないでください。それよりも、お腹の具合は?」
「はい、もう大丈夫です」

そう、結局ジェラートを三つも食べた桃香は見事にお腹をこわし、慌てて近くの喫茶店に駆け込んだのだった。

真一は、タバコを切らしていたことを思い出し、フーッと息を吐いた。カフェインで気を紛らわすしかないと、ブラックのコーヒーを注文して、

「どうしますか? お腹と相談してください」
「えっと、私は……」

メニューを見ながら、しかし桃香はハッとして、

「桃香です。服部桃香」
「あっ」

真一も、目の前にいる相手の名前すら知らなかったことに気づいた。

「安田真一といいます。今日は、ありがとうございました」
「こちらこそ……色々迷惑かけてごめんなさい」

真一は首を横に振って、「体調が良くなったようで、良かった」と微笑んだ。途端に、お腹をこわしていた気恥ずかしさも手伝って、桃香は赤面した。

その目だ。秋の日差しを受け入れ、優しく照り返すような色の。

桃香は確実に惹かれていた。

「この後なんですが」

真一が切り出した。

「兵藤さん経由で、服部さん、あなたのお友達からお願いをされています」
「えっ?」

桃香がトイレとお友達だった間に、真一のスマホに連絡があったらしい。

「ジュンク堂に行く用事があったんでしょう。服部さんは人混みが苦手だから一緒に行ってほしいと」

あ、あの絵美子のやつ〜!

「えっと……」

桃香はおずおずと、

「中原中也の、詩集が欲しくて」
「あ、そうなんですか。それなら自分も持ってますよ。『在りし日の歌』『山羊の歌』……未刊のものも収録したものも。良かったらお貸ししましょうか?」

願っても無い申し出だ。

桃香はテーブルに身を乗り出して、

「いいんですかっ?」

真一はやや驚きつつも頷き、

「もちろん。詩集は読まれるためにあるわけですし」

桃香のボルテージは一気に高まった。いそいそとスマホを取り出し、

「LINE、やってますか?」
「はい、一応。あまり使ってないけど」
「じゃあ、ふるふるしましょう、ふるふる」

桃香本来の積極的な性格が、ここへきてひょっこり顔を出したようだ。

「これで連絡できますね!」

桃香は張り切ってスマホに真一のIDを登録した。

真一は若干、桃香に気圧されながらも、桃香の連絡先をスマホに収めた。桃香は笑顔で、

「ありがとうございます。もう一つだけ、お願いしてもいいですか」
「何でしょう」
「私、その……、人混みが苦手で、最寄り駅の改札まででいいので、帰り付き添っていただけますか」

真一はすぐに快諾した。

「ええ。もちろん大丈夫ですよ。何線ですか?」
「西武池袋線の、江古田です」
「へぇ、懐かしいな」
「えっ?」
「あ、いや、大学が西武池袋線沿線だったので、江古田もたまに遊びに行ってました。駅の近くに小さな劇場がありますよね」

桃香は驚いた。

「そうなんですね。じゃあ、あのお笑い芸人が通った喫茶店とかわかりますか?」
「ええ、行ったことありますよ。煙草が吸える貴重な場所だったので」

桃香の表情が、パッと明るくなった。

それからしばらく、二人はいわゆる地元—クで盛り上がり、真一がチラッと腕時計を見た頃には、日もすっかり暮れていた。

「あ、もうこんな時間。そろそろ行きましょうか」

楽しい時間は、あっという間に過ぎる。桃香は非常に名残惜しかったが、時間ばかりは仕方がない。

「ありがとうございました」

そして駅に向かった二人だったが、何やら駅がいつも以上に騒がしい。ひっきりなしにアナウンスがかかっている。

「ただいま、西武池袋線は石神井公園駅での人身事故のため、運転を見合わせております」
「えーっ!」

桃香は人混みの中、必死に真一のブルゾンの袖に掴まっていた。事故の影響でバスも大混雑だ。真一は桃香を落ち着かせようと、

「もう少し、別の場所で時間を潰しましょう。自分も煙草を買いたいので、売店に寄ってもいいですか?」

運転再開の見込みがまだないとのことで、駅には怒号も響いていた。桃香は目に少しの涙をたたえながら、

「怖い……」

そう呟いて、真一にしがみついたまま、その場にうずくまってしまった。

第七話 丸い瞳 に続く