真一は一瞬戸惑ったが、持ち前の頭の回転の良さですぐに状況を飲み込み、
「大丈夫です。誰も襲ってはきませんよ」
桃香の背中にそっと手を添えた。
駅構内には相変わらず、運転再開の見込みがない旨のアナウンスが流れている。駅員に食ってかかる人、イライラしながらスマホで通話する人など、喧騒がひどかった。これでは桃香の被害妄想が助長されかねない。
桃香は泣きながら、
「ごめんなさい……。でも、怖いんです」
と訴えた。桃香の脳裏には、思い出したくない光景が蘇っている。すれ違う、あらゆる目と目と目と目が、自分を嘲笑い、踏み潰していく。それは、あまりにも残酷で、桃香のこころを傷つけるには十分すぎた日々たち。
真一はしっかりと頷き、
「そうですよね。怖いですよね」
と、桃香の気持ちに寄り添ってくれた。添えられた手が、優しく桃香の背中をさする。
「深呼吸、できますか。立ち上がれるようだったら、自分の肩に掴まってください」
「はい……」
桃香は必死に鼓動を抑えながら、真一に寄りかかるようにしてヨロヨロと立ち上がった。
通りすがりの人々の興味を引いてしまったようで、周囲の視線が少し痛い。
「ごめんなさい……」
真一はゆっくりと首を横に振って、
「謝らなくていいですよ」
その腕は自然と桃香を抱き寄せるような格好になっていた。
「あっ、すみません」
真一が慌てて腕をほどこうとするも、それを桃香はぐっと掴んで、
「落ち着くまで……」
「えっ」
「落ち着くまで、このままでいいですか」
桃香は精一杯の力で真一にしがみついている。本当に、人混みが怖いのだろう。
真一はもう片方の手を、震える桃香の肩に添えた。
「もちろん、いいですよ」
「……ありがとう、ございます」
実は過去はいつでも、未来へ向かう者を優しく見送るものだったりする。過去に出会った人、愛した人、そのすべては未来に繋がるために糧となって存在する。二人はまだ、そのことを知らない。だが、それでもこころのどこかで分かっていた、『二人の時間』が動き始めることを。
不思議な時間だった。
出会ったばかりの二人が、人の行き交う池袋駅の片隅で密着している。はたから見れば、その姿は間違いなくカップルのそれだった。
真一は桃香をリラックスさせるために、こんなことを言い出した。
「祖父の家の本棚に、中原中也の詩集が置いてありました。祖父が亡くなって、遺品を整理していた時に、もらったんです。特に『サーカス』を読んで、夢中になりました」
昔語りでもするかのように真一は言う。
「『ゆあーんゆよーん ゆやゆよん』って、言葉の響きが面白くて」
桃香はハッとした。真一は続ける。
「『春日狂想』は悲しくなりますよね。言葉の持つ力がすごいというか」
「……」
「服部さんは、どうして中也を?」
「……違うんです」
「何がですか」
桃香は声を震わせた。
「中原中也なんて、本当はよく知らないんです」
懺悔でもするように真一に言った。
「ただ、近づきたくて、きっかけが欲しくて、それで……」
「えっ」
「ごめんなさい……」
真一はまさに虚を突かれた。しばし目をぱちくりさせていたのだが、桃香が自分の腕の中で小鳥のように震えている姿が徐々に愛おしく感じられ、真一は彼女を包み込むようにそっと抱きしめた。
「謝らないでください」
「え?」
「その代わりと言ってはなんだけど……」
それ以上余計な言葉はいらなかった。真一は桃香の丸い瞳を見つめると、
「もう少し、このままでいてもいいですか」
第八話 短気 に続く