第八話 そこにいるそのもの

数日前のことだ。定期的に自宅に訪問する若手のソーシャルワーカーが、透の提出した『日課のチェックリスト』中の11月27日(火)と11月30日(金)の欄に「コトノハ」という走り書きを見つけたので「これはなんですか?」と質問をしてきた。生来の不器用さゆえ、嘘やごまかしをうまく使えない透は、正直に「喫茶店です」と答えた。

「喫茶店?」
「はい。JRの駅前の方にある、小さな……」
「この日はそちらへ行っていたんですか」
「はい」
「作業所への見学はどうしたんですか」
「それは……」

透は言葉に詰まってしまう。

「……すみません」
「別に謝っていただきたいわけでじゃないので。じゃあリスケしますね。先方の都合もありますので、短くても二週間は待っていただくとは思いますが」
「はい」

自分には従う以外の選択肢がないことくらい、透には身に沁みてわかっている。ワーカーは種々の書類に目を通しながら透に質問を続けた。

「さすがに通院は行かれたんですよね?」
「えっと、その」
「まさか」
「……すみません」

ワーカーは聞こえよがしに深くため息をついた。

「沢村さん。せっかく退院したんですから、もう少し頑張りましょうよ。クリニックはすぐにでも予約を取り直しましょう。薬の飲みそびれはシャレになりませんから」

ワーカーは透の了承を待つことなく、その場でスマートフォンから透が地域で通うことになっているメンタルクリニックへと電話をかけた。

自分に代わって他の人間が何度も自分の通院予約のすっぽかしを電話口で謝っている。まるでお前は半人前だと言われているような心持ちになり、透は胸のあたりがむず痒くなった。

「じゃあ、火曜日の14時半に予約が取れましたから必ず行ってください。必要なら僕が付き添うこともできますが、どうしますか」
「結構です」

透が即答したのでワーカーは多少面食らったが、「わかりました」と何やら手元の書類にメモをして「お願いしますね」と念押しして帰っていった。

ワーカーが新しく置いていったチェックリストの余白に『12月4日(火)14時半 かえでメンタルクリニック』とボールペンで記入しようとして、透は手を止めた。

この日のティータイムに、透は朋子に数ⅠAの続きを教える約束をしていたのだった。


「迷惑、迷惑とおっしゃいますけど、迷惑とはあなたのこの電話のことです。では」

それだけいうと、神谷は電話を一方的に切ってしまった。

「マスター、そんな対応して大丈夫なんですか?」
「保健所のほうが、一方的な因縁をつけてきたんだ」
「だからって、印象悪くならないかなあ。目をつけられたらいやだな」

美咲が不安そうにいうが、神谷は「さあ」と肩をすくめてみせるだけだった。

「遅くなりましたっ」

ぱたぱたと元気な足音を立てて朋子がコトノハにやってくる。黒いハーフコートの下はやまぶき色のセーターとアイボリーのカットソーの重ね着、それにインディゴブルーのジーパン。すっかり冬の装いだ。

師走を迎えて、クリスマスのにおいが少しずつ確実に街を包み込みつつあるようで、朋子のポニーテールにもひいらぎの実と葉をかたどった愛らしいアクセサリーがつけられていた。

頬を赤くして寒い道を駆けてきた朋子に、「よく来たね」と神谷が一転して笑顔を向ける。いつもの場所からエプロンを手に取ろうとした朋子に、美咲が「いいよいいよ」と声をかけた。

「え、なんで?」
「今日は沢村さんが来る日でしょう。張り切るのはそっちにしてほしいから、お店の手伝いはそのあとでできたら、でいいよ。ね、マスター」
「うん」
「ありがとうございます」

朋子はぺこりと頭を下げた。

神谷は、美咲にカウンターの奥の花瓶の花を取り替えるようにいった。

「そろそろこの子たちも枯れてしまってきたからね。土に還してあげよう」
「そうですね」
「花も人も、『そこにいるそのもの』が、『すべて』だからね」
「そうですね」

神谷の言葉に、美咲は微笑んだ。


遡ってヨーコの提案からまもなくのこと、透から朋子に勉強を教えたいという申し出があった。

「僕にできることであれば、お手伝いさせてください」

透は朋子に対して決して「指導」という言葉を使わなくて、懸命に参考書にかじりつく朋子の「手伝い」をしたいとのことだった。最初のほうこそ多少警戒していた朋子だったが、参考書を読んだ透が「数式の展開は、頭で考えないほうがいいです」と不思議なことをいうものだから、すぐに肯定的な興味をもって透の言葉に食いついた。

「え、だって数学でしょう。『頭で考えない』ってどういう意味ですか?」
「例えば、数学の問題はゲームだと思って解いてみましょう」
「ゲーム?」
「そう。たとえばこのページの、『A=x2+x+1 , B=3×2−7 のとき、次の式を計算せよ。(3A+B)+2(A−2B)』ですけれど、多項式は代入する前に代入する式を計算し簡単な式にすることと、式を代入するときはカッコを付けたままにすることの2つがコツです」
「それのどこがゲームなんですか」

朋子は頬を膨らませてむくれてみせる。透の指先は丁寧に数式を追った。

「つまり、常にザコキャラを倒してレベルアップしておくことと、いざボスに挑むときには装備を万全にしておくことがクリアには大事ということです」
「なんだかRPGみたい!」

とたんに表情を輝かせる朋子。

「そうやって導き出す『解』は、ゲームでいうなら報酬、つまり宝箱みたいなものだと思えばいいと思います」
「なるほど。でも、どっちかっていうと宝箱っていうより囚われのお姫様かな。姫は数式っていう鎖につかまってて、勇者が公式って武器でそれを解くと救出できる、みたいな」
「そっか。そっちのほうが表現としてしっくりきますね……」

真剣に頷く透に、朋子は思わずくすっと笑った。

「沢村さんはFF派? それともドラクエ派ですか?」
「僕は、ポケモン派でした」
「そうなんだ! じゃあポケGOやってます?」
「それはなんですか?」
「めっちゃ流行ってるんだよ。スマホがあればできます」
「そのソフトは、どこで買えるんですか」
「ううん、アプリをダウンロードするの。沢村さんたくさん歩くから、ちょうどいいと思う!」

持ち始めたばかりのスマートフォンにアプリをダウンロードする方法を朋子に教わる透。

これではどちらが教える立場なのかわからない。スマートフォンの操作に悪戦苦闘する透だったが、その表情はどこか穏やかであった。朋子もまた、どこか嬉しそうに透にアプリの手ほどきをしている。そんな様子を、神谷も美咲も微笑ましく眺めていた。

そんな和やかな風はしかし、長くは続かなかった。


透は朋子から教わったスマートフォンの操作を思い出しながら、コトノハの電話番号を調べるためにグルメアプリを起動させた。客の口コミで点数のつくそのアプリでは、コトノハは飛び抜けて人気があるわけではない。だが常連客たちによるものだろうか、「この街でホッと落ち着ける貴重な場所」「かわいいニャンコがあいさつしてくれます」「ガトーショコラならここに決めてる!」など、血の通った書き込みが数件寄せられている。

ページをスクロールさせてようやく電話番号が見つかったので、番号部分をタップした。ところが、呼び出しのコール音が耳に入ってきた瞬間、彼に冷たく強い緊張が走った。

(誰に断ってどこにかけてんの)

(いつまでチンタラしてんだよ)

(電話は1日3分まで。そう言ったよね?)

(相手は女? まさかね!)

透の中で一時的にフラッシュバックが起きる。アパートの小窓がひどくガタガタと音を立て、外の寒さを示しているようだ。透は耐えられず、反射的に通話ボタンを切ってしまった。


約束の日、14時半を過ぎても透は姿を現さなかった。朋子はティータイムが過ぎて客足が一段落しても、ヨーコの店の隣の席を陣取ってずっと透を待っていた。柱時計の鐘の音が3回、4回と増えても、彼は姿を現さなかった。

「都合が悪くなったのかもしれないね」

美咲が声をかけても、朋子はかたくなに席を立とうとしなかった。


ごめんね。僕は、たった一言を伝えたかっただけだった。

世界で、ただ一人のきみに、心からの「おめでとう」を。

ごめんね。そんなちっぽけな願いすら、僕には叶えられなかった。

許してくれとは言わない。それでも、本当に……ごめんなさい。

――僕にはもう、何もないみたいなんだ。

第九話 自分の望み に続く