桃香は真一の腕の中で深呼吸した。彼のブルゾンには少しだけ煙草のにおいが染みついているが、それすらも、今は心地よく感じられる。
真一はぎこちなく、しかし優しい手つきでゆっくりと桃香の頭を撫ぜる。
桃香は少しだけ驚いて、パッと目を大きくした。それに気づいた真一が、
「あっ、ごめんなさい」
そう言って手を引っ込めようとした。ところが、
「ダメ」
桃香がなんと、その手を握り返したのである。その見た目からは信じられないほどの力で。
「敬語なんて、嫌。嫌だよ」
真一の心臓が一気に跳ね上がる。桃香の顔は真っ赤になっている。
「い、いいんですか……」
「敬語は嫌だってば」
真一は戸惑いを隠せずにいた。こんなことになるとは、全く予想していなかったからだ。しかし、こころの内側から湧いてくる、熱く不可思議な感情に押し流されるままに、言葉を口にした。
「……本当に、いいの?」
桃香は必死に顔を縦に振る。
握りあった手が、かすかに震えている。どちらが震えているのか、もう二人にはわからなかった。
「で、なんて呼び合ってるの?」
先日行きそびれたカフェの代わりに、江古田駅前のドトールでモンブランをつつきながら、絵美子が桃香に問う。
桃香は色白の顔を真っ赤にして、アイスティーにささったストローをぐるぐるさせている。
「いや、別に。安田さんって」
絵美子はぷふー、と吹き出して、
「桃香らしくないなぁ〜。てっきり『真ちゃん♡』とか呼んでるのかと思ったよ」 「やめてよ! 恋人じゃあるまいし」
「え? 違うの?」
ブンブンと首を横に振る桃香。
「なんで? 付き合い始めたんじゃないの?」
さらにブンブン度が増す桃香。
「あの日は、あれから……その、」
桃香は声を小さくして、
「何も、なかったんだもん」
「えぇー!!」
「ちょっと、叫ばないでよ。恥ずかしいよ」
絵美子はずずいっと桃香に寄って、
「なんでよ。どういうコト!?」
「……顔近い……」
納得のいかない絵美子は、モンブランにフォークを突き立てた。そして人差し指を桃香に突きつけた。
「お主には、重大なアカウンタビリティーがござる」
「はい?」
「説・明・責・任!」
「えぇ!?」
そう、あれからの二人といえば、運転再開の見込みがアナウンスされるまで、池袋駅の片隅で身を寄せ合っていたが、突然、真一が神妙な声で、
「ごめん、いきなり」
と体を離してきたものだから、桃香は戸惑ってしまった。
「なんで、謝るの」
「ごめん……。電車、45分には動くみたいだから、行こうか」
真一のあまりの素っ気なさに、桃香の頭にカーッと血がのぼる。
この短気さで、今まで何度、恋を逃してきたことか。しかし、桃香は自分の感情を制御できなかった。
「……、いい。もう大丈夫っ」
真一を振り切って、勢いだけで一人で帰ってしまったのだった。
事の顛末を聞いた絵美子は、桃香の頬をうにーっとつねった。
「いたたたたたた、何するのたたたたたた」
「バカじゃないの!」
絵美子は桃香を叱りつけた。
「連絡は取ってるの?」
「あ、いや……なんか、気まずくて」
「そりゃあ、そうでしょうよ」
絵美子はモンブランを食べ終えると、カバンからパンフレットを取り出した。
「これ、『ふるーる』のパンフレット。今度行ってみない?」
「あっ、えっ。でも、ラインわかるし……」
「直接会って話そうってコト。何でもかんでもラインで済ませようとするのは現代人の悪い感覚ね」
絵美子はそう言ってニッと笑った。
第九話 ふるーる に続く