第九話 自分の望み

かえでメンタルクリニックはJRの駅から徒歩圏内の雑居ビルに開業されており、心療内科と精神科を標榜している。

透が紹介状と市役所から送られてきた受診のための医療受給者証などを受付に出すと、医療事務の女性がにこりと微笑んで「お待ちください」といった。

透は落ち着かない様子でクリニック内を見回した。観葉植物に給水器、グルメのムック本や猫の写真集の入ったマガジンラック、座り心地のいいソファー。木目調の壁面と相まって全体的にあたたかな雰囲気を感じた。待合室にはオルゴールのBGMが流れており、患者をリラックスさせる工夫が随所に見られた。

指定された時間より早くクリニックには到着していた。時間を逃すと後回しにされて長時間待たされることを危惧したからだ。

しかし、14時半を過ぎても呼び出されることはなく、透は何度も腕時計を確認した。どうやら前の時間帯に予約した患者の診察が長引いているようで、この調子ではコトノハに顔を出すのは難しそうだ。

「沢村さん、診察室へどうぞ」

15時半を少しすぎた頃にようやく名前が呼ばれたので、透は小さく深呼吸して診察室のドアを開けた。透がぎこちなく一礼すると、椅子に座っていた彼の新たな主治医はにこりと一礼を返し、「はじめまして」とあいさつをした。年の頃なら50歳過ぎといったところだろうか。

「どうぞ座ってください。私は隅田と申します。よろしくお願いします。紹介状ありがとうございました、確かに拝見しました」

かえでメンタルクリニックの院長である医師、隅田は白衣を着ておらず、ポロシャツにカーディガン、チノパンコーデというカジュアルないでたちであった。透がかつて病棟医師から感じていた威圧感や怜悧冷徹な雰囲気は皆無で、診察室のキャビネットの上にはポケモンのぬいぐるみが何種類も置かれている。思わずそれに目を奪われた透に、隅田は「娘が幼い頃に買ったものなんです」と笑いながら説明した。

初診ということを抜きにしても、隅田は時間をかけて丁寧に透の紹介状とこれまでのカルテを読み込んでおり、落ち着かない様子の透に対して静かな口調でこう告げた。

「ご存知かもしれませんが、この科ではすでに、あなたの疾患に関して『単剤処方』が主流になっています。ですが、現時点であなたには多剤が上限ギリギリで処方されている。このことについて、沢村さんご自身はどうお考えですか」
「え……」

隅田の意外な言葉に、透は戸惑った。薬の処方に関して意見を求められることなど、これまでなかったからだ。

「身体的な影響も考えて、ゆっくりでいいので減らしていきませんか。副作用だって、この量では決して軽くないはずです」

隅田は、透が自分の言葉で発言するのを待った。患者が考えるのを、決して急かしたり促したり、ましてや誘導したり恫喝したりなどしない。

一人の人間として、他でもない自分の飲む薬について話ができる。そんなことはこれまでまったくといっていいほどなかった。それは透にとっては新鮮な驚きだった。

「今は『アドヒアランス』という言葉も注目されています。患者さんに私たち医師の指示に従ってもらうのではなく、患者さんご自身がどうされたいかを決めて、私たちはそれを支持する、というあり方です」
「どうしたいか、ですか」
「ええ。私たち医師は、知識は提供できても、患者さんお一人おひとりがどう歩み、何を望むのかを一番知っているのは、経験を持つ患者さんご本人ですので」

隅田は透をまっすぐに見た。

「ですから、自分の希望を自分で知っておくことが大切だと、私は思います」

自分の望み。それはきっと、「もう何も望まないこと」だ。

なにもかももう、僕にはない。

かけるべき言葉も、かけたい相手すら。


連絡もできず約束を破ってしまった気後れから、透の足は自然とコトノハから遠ざかった。ワーカーから連絡がきて、急きょ地域活動支援センターへの見学ができることになったのがその次の日となり、クリニックへの通院は当面のあいだ毎週にしたいと要望を出した。あれやこれやと言い訳を見つけては、コトノハに行かないことを「仕方ないこと」と片付けようとしている自分がいることは、心の隅では自覚していた。

センターの見学に対応した別のワーカーは感じが良かったし、帰る間際に温かい麦茶を出してくれたときに「無理のない範囲で、いつでも来てくださいね」とも言ってくれた。

透は懸命に自分に(これで、いいんだ)と言い聞かせていた。


神谷の一人息子、昌弘から珍しくLINEで連絡がきたのは、神谷が閉店後にサイフォンを片付けようとした矢先のことだった。神谷のスマホには4桁ごとにハイフンの入った12桁の番号が載っており、続けて「受け取りよろしく」とだけメッセージが届いた。なんのことなのかよくわからなかったので、「了解」とだけ返信した。よくはわからなかったものの、昌弘が連絡をくれたことは素直に嬉しかった。

美咲が買い出しから戻ってきたので番号のことを尋ねると、「それはたぶん、宅配の伝票番号じゃないでしょうか」とのことだった。

「何か送ってくるんじゃないでしょうか」
「昌弘が? なんだろう」
「カノジョとのプリクラとか」
「いや、それはない!」
「なんで断言できるんですか」
「もしそれだったら普通郵便で十分じゃないか」
「そっちですか」
「まさか、着払いかな」
「どうでしょうねー」
「うーん」

師走も半ばを迎えようとしたある日の夜のことだ。制服姿の朋子がとても暗い表情でコトノハに現れた。彼女は黙ったまま最奥のテーブル席に座ったとたん、ほろほろと泣き出してしまった。

美咲は買ってきた果物を冷蔵庫にしまう手を止め、何も問うことなく朋子の対面に座った。

朋子はしばらく泣き続けていたが、唇にくっと力を込めて涙を手で拭った。通学カバンからクリアファイルを取り出して、

「あのね」

と美咲に話を切り出した。

「期末テスト、保健室で受けたの」
「そっか。頑張ったね」
「うん」
「嫌な子たち、平気だった?」
「……頑張って、無視した」
「そっか」

朋子の涙の理由はしかし、クラスで朋子をこぞってからかう卑怯者たちではなかった。美咲は朋子の差し出したクリアファイルの中身を見て「あっ」と声を上げた。

それは朋子の数学の期末テストの解答用紙で、右上には「83」と点数が記載されているではないか。

「え、ええーっ! 朋子ちゃんすごい! すごいじゃないこれ!」
「うん」

朋子が力なく笑う。

「武器をたくさん手に入れてね、公式っていう魔法をいっぱい覚えて、何度もザコキャラを倒したんだ。そうしたら経験値が上がって、私、レベルアップしたみたい」
「朋子ちゃん……」
「それ、見てもらいたかった」

そういってまた涙を流す朋子に、美咲はなんと言葉をかけたらいいかわからなかった。

そこへ話しかけてきたのは、クリスマスシーズンモードのディスプレイを目の前に英字新聞を読んでいたヨーコだった。

「それはなぜ過去形なの?」
「え?」

美咲が首をかしげる。

「『見てもらいたかった』? そんなに『見てもらいたい』のなら、見てもらえばいいじゃない」
「でもヨーコさん、どうやって」

美咲の疑問に、ヨーコはにやりと笑った。

「マグ!」

名前を呼ばれて、マグはのんびりと大あくびをしてから、とっとことヨーコの店の前までやってきて「何か用?」とばかり短く鳴いた。ヨーコはそんなマグの喉元を撫でてやってからグリーティングカードのラインナップを指さし、朋子にウインクをした。

「とっておきのインヴィテーションレターを準備しなきゃね。朋子ちゃん、この中から好きなデザインを選んでくれない?」

第十話 美味しくなってね に続く