第九話 ふるーる

兵藤さんは真一を心配していた。あの日以来、どこか心ここにあらずといった感じで、仕事にも凡ミスが増えたからだ。

「あのさ、安田くん」

兵藤さんは真一の提出した書類を手にしながら、

「平成2016年って、ありえないでしょ。これじゃ申請通らないよ」
「あ、ハイ。すみません」

返事も生返事だ。

「すみません……」

そして、意味もなく繰り返す。

兵藤さんは書類を机に置くと、真一の顔を覗き込んだ。

「調子、悪いの?」
「い、いえ。なんでもないです」
「そう。無理はしないでね。相談記録の集計なら分担して、なんとでもなるから。ちゃんと声をかけてよ?」
「はい……」

真一は上の空でパソコンの画面を見つめていた。


ピアサポートセンター・ふるーるの業務内容は、主に障害者の地域生活支援だ。専門家ではなく、障害者のことは障害者が一番よくわかっているという理念から、介助派遣や生活の困りごとの相談、軽作業による作品の制作(ストラップなど)、行政交渉まで実に幅広い活動を行なっている。

ピアサポートという点では兵藤さんも、しっかりと障害当事者だ。一型糖尿病という難病を持っている。見た目ではわかりづらいが、健常者に比べて疲労しやすいという特性がある。
年齢は真一より十二歳上、ひとまわり先輩だ。竹を割ったような性格で、しかし細やかな気配りもできる女性である。そのため、兵藤さんを慕う職員も多い。

兵藤さんはふるーるで会計を担っている。その隣の席で総務と相談業務を兼任しているのが、真一である。その向かいには、車いすの女性、垣内さんが総務主任としており、真一の少し先輩にあたる。少し離れた場所で、資料に点字を打っているのは視覚障害のある男性、上田さん。この春に入職したばかりの新米だが、やたらとおしゃべりで人懐こい。

そして彼らを束ねているのが、代表の三浦さんである。三浦さんは御歳68才の大ベテラン。二十歳の時に交通事故で頸髄を損傷し、四肢がほとんど動かないため、わずかに動く右手で電動車いすを操作している。非常に温厚な人柄で、三浦さんが怒っているところは滅多に見たことがないと言われるほどだ(その代わり、怒らせたら大変なことになるらしい)。

ふるーるのみんなは、三浦さんが大好きだ。殊、真一に関しては、一生かかってでも返すべき恩があるのである。

きっかけは、一冊のタウン誌だった。精神科病院を退院後、アルバイトも長続きせず、無為に過ごしていた彼は、ある日なんとなく街角で、「ご自由にお持ちください」のコーナーにあった冊子を手にした。パラパラとめくった中に、「障害のある人の地域生活、支援しませんか? 介助者大募集!」の文言が飛び込んできた。福祉とか、そういうのはよくわからなかったが、「資格不問! やる気のある方求ム!」という言葉に惹かれ、ダメ元で電話をかけたのである。

その時のエピソードは、ふるーるではいまだに語り草となっている。

「あの、初めて電話します。自分、そちらに介助者登録をしたいんですが」

電話を取ったのは兵藤さんだった。

「あらー、ありがとうございます! じゃあ、履歴書を送ってもらえますか」

真一は言葉に詰まった。

「履歴書、ですか」
「一応、形だけ。お願いしています」
「そうですか……」

迷った。『不自然な空白期間』をどう説明しよう。あらゆる企業の書類選考も、この『不自然な空白期間』のせいで落ちてきた。すなわち、大学中退と病院から退院後の『どこにも居場所がない』期間である。

「あの、やっぱりいいです。すみません」
「えっ、何でですか!?」

兵藤さんが、非常に積極的に食いついてきた。せっかくの希望者を逃してはなるまいと。

「あ、じゃあ、まず面接しましょう。ね、いいでしょ」

兵藤さんが強引なのは、それだけ人手が不足しているからだ。まさに、飛んで火に入る夏の虫。

「来週の月曜、待ってますね! お名前と連絡先をお願いします」

真一の、スマホを持つ手が少しだけ震えた。兵藤さんの気迫に押されたのだ。

「安田真一と申します。えっと、携帯番号は……」

翌週、約束の時間になると真一は、ふるーるの事務所を訪ねた。採用面接だと思い込んでいたので、スーツを着ていた。久々だ。着慣れないせいか、そわそわと落ち着かない。

「こんにちは……」

事務所のドアを開けかけた時、そのドアが強く奥へぐいっと引かれた。ちょうど出る人がいたようだ。

「ポストに行ってきまーす」

垣内さんが車いすの後ろのバッグに書類を詰めて、出かけるところだった。真一の姿に気づいた垣内さんは、彼を来客と勘違いし、

「あ、どーも」

軽く会釈して去っていった。

すぐに、奥の方から「あらー!」と朗らかな声がした。兵藤さんだ。パタパタと駆け寄ってくる。

「安田さんですね?」
「は、はい。はじめまして」
「いや〜、スーツなんて久々に見たわ〜」
「えっ」

戸惑う真一。それもそのはず、仕事に就くために気合を入れたはずのスーツが、見事に空振ったからだ。

「その格好じゃ、身辺介助は難しいわよねぇ」
「はい?」
「まぁ、いいわ。とりあえず、奥のソファーにどうぞ」

通された場所には、ソファーの他に手作りと思しき焼き物の花瓶が置いてあり、季節の花が飾られていた。この時は、秋口だったということもあり、桔梗の花がさしてあった。
兵藤さんがお茶を汲んできて、「ちょっと待っててね。すぐに代表が来るから。これ、うちのパンフレット。良かったら読んで」そう言って席を外した。

真一は相変わらず落ち着かず、周囲を見渡していた。しかし、今までの緊張感とは何か違う。不思議な感覚があった。それは理論や言葉で説明できるものではなく、直感や予感の類だろうか。

お茶を一口飲んで、パンフレットを手にした。

ふるーるは街の中に溶け込むように存在している。商店街の一角だ。今まで気づかなかった。こんな場所があるなんて。

ふと、入口の方からホイールのような音がした。電動車いすの操作音だ。

「こんにちは」

現れたのは、にこやかな微笑みをたたえた、三浦さんだった。

真一はすっくと立ち上がった。

「は、はじめまして。安田真一と申します」
「どうも、三浦です。はぁ〜、今日は少しは涼しいねぇ」

ド緊張する真一を見て、三浦さんは笑って、「座っていいよ。緊張しないで、といってもしちゃうよね。そうだよねぇ」マイペースに話しかけてくる。

「スーツじゃ、まだ暑いよねぇ」
「あ、ハイ」
「脱いでいいよ」
「はいっ」

生真面目に答える真一。そこへ資料を運んできた兵藤さんが入ってきて、「きゃー!!」と
年甲斐もない黄色い悲鳴をあげた。本当に真一が脱ぎ始めたからだ。しかも、ズボンから。

三浦さんは、「言いながら、指の隙間から見てるじゃないの〜」とツッコミを入れる。

「何、何なに!?」

兵藤さんの言葉はもっともだ。後にこれが、『安田くん初日から脱いじゃった事件』として語り継がれるようになる。

そんなふるーるに、今日、来客があった。

「こんにちは……」

彼女は、やや小さめの声で、

「あの、突然すみません……」

恭しく丁寧に、こう言った。

「服部と申します。安田さん、いらっしゃいますか」

第十話 同じ色 に続く