コトノハのある街は外国人観光客も多く滞在する。都心へのアクセスが良好な上にホテル代が比較的安価だからだ。コトノハにも時折やってくることもあるが、これまではメニューの指さしか単語の羅列、ボディーランゲージでどうにか応対してきた。笑顔があればノンバーバルコミュニケーションでもどうにか乗り切れるものだ。
ところが、この日やってきた欧米人のカップルは、デザートのガトーショコラを口にしたとたん、近くで別のお客さんのグラスに水を注いでいた朋子に声をかけてきた。
「はい」
返事をしたのはいいが、朋子が戸惑うのにも構わず、大きな身振り手振りでカップルの女性のほうが何か英語でしゃべっている。語尾に明らかにクエスチョンマークがついた状態で会話のボールを返され、朋子はおおいに困った。
「えっと……ソーリー……」
なんとなくその客の気迫に押されて知っている単語で応対してみるが、それはこの客らの望むリアクションではなかったらしい。なおも何かを要求するようなそぶりでしゃべり続けているその前で、朋子は思わず固まってしまう。
そこへ助け舟を出したのはヨーコだった。ベールの奥からつかつかとその客らに歩み寄ると、にやりというよりにこりと笑顔で流暢な英語を話しはじめた。ヨーコの応対にようやく納得がいったらしく、女性は「Thanks!」と返してまたガトーショコラを食べ始めた。
「ヨーコさん、すごい……!」
お水のピッチャーを持ったまま、感動を目のぱちくりで表現する朋子。
「一応、向こうで修業した身だからね、これくらいは朝飯前よ」
「かっこいいとしか」
「それはありがとう」
「……苦情、ですか?」
朋子が小声になってきくが、ヨーコは「いいえ、むしろその逆」と美咲を呼んだ。
「こちらの方たち、ガトーショコラにとても感動したって。レシピを教えてほしいそうよ」
「ええっ」
美咲は思わず神谷を見た。神谷はサイフォンでコーヒーを淹れていたが、視線を送る美咲に黙って頷いた。美咲は少し思案してから、「ヨーコさん、通訳お願いします」といった。
「ガトーショコラは、そんなに複雑なレシピではありません。材料が揃えば、手軽に作れるところが魅力だと思います。そのぶん、作り手の気持ちがとても現れやすいスイーツです。私のガトーショコラのレシピは、大切な人から教わったものなんです。でもそれも、特別な秘密があるわけではありません」
ここまでをヨーコが通訳すると、なおもその客は質問を続けた。
「『ではこれは何が他のガトーショコラと違うのか?』ですって」
「たったひとつです。焼く前に、生地に声かけるんです。『美味しくなってね』って」
それを聞いた女性客は、「Wonderful!」と美咲に握手を求めてきた。美咲がその勢いに押されて手を差し出すと、結構な力でがっしりと握手をされた。さらにまた話しかけてきたので、英語はわからないが恐らくネガティブな内容ではないと思い、美咲は「サンキュー」と笑顔を返した。
「『この街に来てよかった。この店と出会えたから』」
ヨーコが通訳すると、美咲は照れ笑いを浮かべた。
「きっと由衣も喜んでいるよ」
おもむろに神谷がそういった。それを聞いた美咲は「はい」と頷いた。
神谷がこの街にコトノハを開いたのは、妻の由衣のそばにいるためだった。それまで都心の商社に勤めていた神谷だったが、親戚の反対をおして脱サラし、由衣の生まれ育った街に小さな喫茶店を構えた。
由衣の得意としたのがガトーショコラだった。開店してすぐに常連客となったのが、美咲の父親だった。父に連れられてしょっちゅうコトノハに出入りしていた美咲は、すぐに由衣のつくるガトーショコラのファンになった。
「由衣おばちゃん、ケーキおかわり!」
「クリームはどうする?」
「たっぷりましましで!」
「あら美咲ちゃん、『ましまし』なんてどこで覚えたの」
「クラスの男子が言ってた! ラーメン屋さんで使うんだって」
「じゃあたっぷりましましにしちゃうわよ〜」
「やった!」
そこへ口を挟んでくるのはカウンター席で宿題と格闘している昌弘だ。
「お前、あまり食いすぎると太るぞ」
「うるさいなー。美味しいからいいのっ」
「知らねーからな、そのスカートが入らなくなっても」
「うっさい!」
そこへクリームたっぷりのガトーショコラがのった皿を由衣が持ってきた。
「はい、どうぞ」
「いただきまーす」
「ほら、昌弘のもあるよ」
「まじでっ!」
由衣の言葉に顔を輝かせる昌弘に、神谷は苦笑した。
「好きなものは好きって素直に言えよ」
「うるせ。うまっ!」
由衣に残された時間は限られていた。神谷が都心でサラリーマンとして働いていた頃、突如体調不良を訴えて検査した由衣に告げれたのは、心臓がいつ止まってもおかしくないという残酷な結果だった。
神谷はまだ小学生だった昌弘にはとてもその事実を伝えられなかった。しかし時計の針は一方通行で決して巻き戻ることはない。
残業続きで家庭を顧みなかった神谷の帰りを、由衣はいつも起きて待っていた。
(――無理を、させてしまった)
病気を宣告される前、由衣がこんなことをこぼしたことがあった。
「あなたが定年退職したら、私、毎日あなたの淹れてくれるコーヒーを飲んで、のんびりと過ごしたいな」
当時はなんとなく聞き流したその言葉は、由衣の夢そのものだったのだ。そう気づいた神谷は、終電で帰宅後に由衣に先に眠るよう促し、彼女が眠ったのを確認してから、パソコンに向かい辞表をすぐに書き上げた。辞表は数日後、特に慰留もなくあっけなく受理された。自分は社会の小さな歯車に過ぎなかったのかもしれない、と神谷はこのときに痛感した。
コトノハ開店に際して心を砕いてくれたのが美咲の父だった。彼は何もかも初めてづくしの神谷に対し、地元の商工会議所への挨拶や保健所など役所への手続きなどを懇意に手伝ってくれた。あるとき、なぜそんなに力になってくれるのかと神谷は居酒屋で尋ねたことがあった。
美咲の父は酔いもあってかあっさりと口を割った。
「由衣さんは、クラスのマドンナだったから」
「え、まさか」
「そのマサカ! 俺の初恋は由衣さんだったんだよ。まあ、叶わなかったけどね」
人と人とは支え合っているという言葉が、いつから事実ではなく美化されたような意味合いでそやされるようになったのだろう。この街にもいつの頃からか「孤独」の自称者が増えて、互いを監視して貶しあうような凝り固まった空気がはびこるようになったように、神谷には感じられていた。
だから、せめて由衣と作り上げたこの店の中だけは、来た人がホッと一息ついてもらえるような空間にしたいと神谷は願っている。
「やったーっ!」
閉店後のこと、テーブル席から美咲と朋子の歓声があがった。
「マスター、見てください! すごくないですか?」
美咲が得意げに差し出したのは、大ぶりの皿にサイコロ状にカットされたガトーショコラと新作のプレーンとブルーベリー二種類のスコーンに生クリームがついたスペシャルデザートだ。クリームの上には飾りのミントとアラザン、カラースプレーまでデコレーションされており、さらにハート型にカットされたいちごが三つも添えられている。
「特別な日の特別な一皿です。ね、朋子ちゃん」
「名づけて『コトノハスペシャル・メリークリスマス・ハッピーホリデーバージョン』!」
神谷は思わず「ちょっと長くない?」とつっこむが、美咲も朋子も楽しそうなので、ひとまずよしとすることにした。
「ついに爆誕だね。これ、きっと『みんなで』一緒に食べようね」
「うん!」
木枯らしが指の先まで冷たく吹きつける。季節の巡りには容赦がない。
支援センターへの通所後、古本屋で気になった本を物色していたらすっかり帰宅が遅くなってしまった。ドアを開ける前、いつもの流れでなんとなくポストを確認して、やれ不動産だパチンコ屋だののチラシを回収する。
ふと、いちばん底に封書があるのに気がついた。シンプルな白い表面には、筆圧の弱い、しかし愛らしい筆跡で「Invitation letter for Toru Sawamura」と書かれてあった。
第十一話 あたたかいところ に続く