第十一話 あたたかいところ

封書には住所の記載もなければ切手も貼られていなかった。どうやらここに直接投函されたものらしい。透はざわつきを覚えた。忘れるわけがない。これは間違いなく朋子の筆跡だ。家に入ってハサミでそっと端から開封すると、レースをかたどったカードが出てきた。そこには、やはり朋子の字でこう書かれていた。

〈クリスマスパーティーのお知らせ〉

12月24日(月)15:00~
場所 コトノハ 貸切ります
スペシャルサプライズ あります 来てね!

サプライズを予告するという可笑しさに、透は思わずくすっと笑った。そんな自分に、彼は新鮮味さえ携えた驚きを覚えた。

(――笑ったのなんて、いつぶりだろう)

壁にかけてあるカレンダーに目をやると、24日は月曜日だが祝日の振替休日でもあった。休日はセンターが閉まるので、都合がいいといえばいい。

しかし、透には迷いがあった。自分はもう、あの場所には行ってはいけないのではないだろうか。そんな気持ちが強かった。

透は、服薬管理のために「日課のチェックリスト」を取り出し、「夕食後」の欄にボールペンでチェックを入れると、クリアファイルのなかに招待状を一緒にしまった。毎日、目に触れられるように。


昌弘から宅配便で届いたのは、「モクニャン」というメーカーのキャットフードだった。説明書きに、「ヒューマングレードの安全な素材だけを使用しており、添加物など危険な成分は一切使っていません」と書かれている。

「マグに、ってことですかね?」

美咲は首を傾げたが、神谷は合点がいった様子で「あいつらしいな」と呟いた。宅配便の中身に目ざとく気づいたマグが寄ってきて、ごろごろと喉を鳴らす。

「わかったわかった。さっそく開けようか。今日はお前の『誕生日』だもんな」
「あ、そっか」

美咲は大切なことを思い出して、昌弘にすぐさまLINEした。キャットフードの写真とともに「届いたよ、ありがとう」と送ると、まもなく既読がついた。おや、と思った矢先、なんと昌弘から着信があった。

「えっ、おおっ」

美咲はうっかりスマートフォンを落としそうになりながらも、神谷から少し距離をとって通話ボタンをタップした。

「はーい、久しぶり」

美咲が明るく電話に出ると、昌弘は「おう」とわざとそっけなく返した。

「偉いじゃん。ちゃんと覚えてたんだね、マグの『誕生日』」
「偉いとかそういうんじゃないから。ていうか上からかよ」
「マグも嬉しそうだよ」
「よかった」

それから何かを言おうとして息を吸い込んだが、昌弘は黙ってしまう。美咲はおや、と思い話題をふった。

「大学は忙しいの?」
「いや、学校はそんなに大丈夫だけど、バイトがね」
「やっぱり忙しいの?」
「クリスマス商戦で総動員されるんだよ」
「なにそれ」
「ケーキを売れるだけ売らなきゃならない。売れ残ったらバイトが買い取りなんだ」
「ええっ! そこまでブラックなの」
「想像してみ? クリスマスの夜に一人暮らしの男子学生がホールケーキを2つも3つも一人でつついている姿」
「それはなかなかハードだね……でも、カノジョさんと分ければノルマは半分じゃない」

昌弘は電話越しに深いため息をついた。

「あのなあ。なんで俺に彼女がいる前提なんだよ」
「え、いないの?」
「ストレートすぎるわ、アホ」
「なんかごめん」
「謝られると余計むなしい」

そういって笑う昌弘に、つられて美咲も笑った。

「さすがに年末年始は帰ってくるんでしょう?」
「それも微妙」
「そっか」

昌弘の背後で授業の始まりを報せるチャイムが聞こえてきた。

「じゃあ、これから授業だから。父さんによろしくな」
「うん」


その仔猫は、捨て主のせめてもの罪滅ぼしなのか、寒さ除けのために段ボールの中に古びた毛布が幾重にも敷きつめられた箱のなかに入れられていた。空腹と寒さのため身動きができず、まるで飽きられたぬいぐるみのように丸くなって、じっと生命の灯が消えるのを待っているだけのようだった。

そこへ、クラスにうまく馴染めずに俯いて下校してきた昌弘が通りかかったのは、12月のある夕方のことだ。仔猫の入った箱はゴミ捨て場のすぐ横だったから、もし昌弘がうつむかずに歩いていたら気づかなかったかもしれない。縁とういのはそういうところに生まれる、連続した偶然の果実なのかもしれなかった。

昌弘は仔猫と目が合うと、仔猫が怖がらないようにそっと手を伸ばした。仔猫は最初こそ怯えていたが、昌弘がランドセルを地面に置き、中から母が持たせてくれたハンドタオルを取り出して、「お前、汚いな」と声をかけると初めて「みゃお」と鳴いた。今にも消え入りそうな、弱々しいかすれ声だった。それでも、仔猫の体にはまだぬくもりがあった。昌弘がタオルで体を包んでやると、仔猫は目やにだらけの両目をぱちくりとさせ、それから昌弘をじっと見た。

「別に取って食ったりしないよ。あたたかいとこへ行こう」

そういうと、昌弘は仔猫を抱えて白い息を切らして早足でコトノハに走って帰った。

昌弘が突然捨て猫を拾ってきたものだから、神谷は驚いて洗っていた皿を落としそうになった。だが由衣は命に手を差し伸べた昌弘に、「すばらしいよ」と言葉をかけた。

飲食店という性質上、野良猫を店内に置いておくわけにはいかない。仔猫は安心したのか昌弘の手の中ですやすやと眠りはじめた。

「こいつ、可哀想なんだ。助けてやりたい」
「そうだね。縁があったんだね、きっと。とりあえず、この子が起きたらきれいにしてあげましょう」

その後、店舗2階にある居宅スペースのよく暖められた部屋の中で睡眠をたっぷりとった仔猫は、目を覚ますとすぐに由衣が用意した水をがぶがぶと飲んだ。それからサラダ用に茹でてあった鶏ササミを小さく刻んで出してやると、自分の体の半分以上はあろうかという量をいっぺんに食べてしまった。

「腹、減ってたんだな」
「さあ、これで準備はOKね」
「準備?」
「使っていない洗い桶があるから、その中でいいよね」
「え、お母さん?」

由衣はにこりとほほ笑む。その瞳に並々ならぬ企図を本能で感じ取った仔猫は、慌てて逃げ出そうとした。しかし由衣のバスタオルさばきが一瞬早かった。仔猫は由衣に囚われると、そのまま浴室へと連れ去られたのである。

「きれいにしましょうね~」

「いやだあぁぁぁ!」といわんばかりにじたばたして「にゃあぁぁぁ!」と叫ぶ仔猫。叫びといっても仔猫のそれだ、「かわいい」の範疇を出ない。ほどなくしてシャワーの流水音がして、ふわりとシャンプーの香りが漂ってきた。

次に昌弘が目にしたのは、見違えるほどぴかぴかになった仔猫だった。由衣にされるがまま、ドライヤーをあてられている。抵抗できないと知って、すっかり平伏した様子だ。

さっぱり汚れを落とした仔猫は、よく見ればとても美しい黄金色の目をしていた。思わず昌弘が見入ると、仔猫は「ん?」とばかり首を傾げた。

「かわいいな、お前」

階下から賑やかな声が聞こえてきたのはその直後だ。

「昌弘ー!」

美咲だ。クラスが別のため、帰りのホームルーム次第で一緒に帰れる日とそうでない日がある。この日、美咲のクラスのホームルームが長引いたのだが、一緒に帰っていれば、やはり昌弘が仔猫に気がつくことはなかっただろう。

「おう、美咲、どうした?」
「どうした、じゃないよ。ほら!」

元気よくやってきた美咲が持ってきたのは、なんと昌弘のランドセルだった。

「あっ!」

仔猫を介抱したとき、地面に置いてそのままにしてしまったらしかった。

「あらあら。美咲ちゃん、どうもありがとう」
「いえいえ。ランドセル忘れるなんて、すごく昌弘らしいなって思いまーす」
「うるせえ!」


懐かしさとともに過去を思い出せるのは、きっと幸せなことなのだろうと思う。

「どうですか、地域活動支援センターは」
「はい、皆さんよくしてくれます」
「それはよかったです」

自分には封じ込めたい記憶が多すぎて、そのこと自体がとてもしんどい。しんどいときほど、人はしんどいとは言えない。だから、しんどい。

自分さえ我慢すれば誰も傷つかないと、ずっとそう思ってきた。しかし、自分が我慢をすれば、他でもない自分自身が傷つくのだ。

「今度、センターの忘年会でカラオケに行くそうですね。沢村さんは好きなアーティストとかいるんですか?」
「……」

気疲れした様子の透は、うつむいたまま応答しない。定期訪問するワーカーは、そんな透の様子を見て「不調の兆し有、要経過観察」と書類の隅に書き留めた。

「すみませんが、今日は帰っていただけませんか」
「ええ、今日はあまり時間がないので失礼します」

(そうじゃなくて)

そそくさと帰っていくワーカーの後ろ姿に、透はたまらず唇をかみしめた。かえでメンタルクリニックの主治医の言葉が頭にリフレインする。

 

『自分の希望を自分で知っておくことが大切だと思います』

(……ごめんなさい。……自分にはなにもないんです――なにも)

第十二話 人生さまざま に続く