第十二話 人生さまざま

香月が働いている介護老人保健施設「とまりぎ」のデイケア部門では、月に一度「お出かけ企画」というものがある。これは利用者たちの合議で外でのレクリエーションを楽しむ内容を決めるプログラムで、11月は和食のファミリーレストランにみんなで行った。そこで、普段は小さなおむすびをようやく半分食べられる程度のとある老婦人が、握り寿司と半ざるそばのセットを注文した。もちろん香月は心配したが、その婦人は「昔よく、主人とここへ来たの」と嬉しそうに話し、時間こそかけたもののそのセットを完食した。

「嬉しい。ごはんが美味しいことも、ここに来られたことも」

そう微笑む婦人から、香月はとても大切なことを教わった気がした。

今月は忘年会が企画され、カラオケボックスに行くことになった。利用者の皆さんに喜んでもらえる一曲が歌えるようになるため、このところ香月のワイヤレスイヤホンは昭和歌謡がヘビーローテーションされていた。

この日も勤務後に一人カラオケで歌の腕を磨こうとカラオケボックスに向かった香月は、心の中で盛大に呟いた。

(あー、私ってなんて仕事熱心!)

先客に会計をしている団体がいたので、なかなか受付の順番が回ってこず、時間がいたずらに過ぎていく。

(まあいいや、今日はこのあと帰って寝るだけだし)

香月は受付のロビーに設えられたソファーに座り、なんとなくスマートフォンのゲームアプリを起動させた。

(そういや、今度の日曜日は駅前にレアポケモンが出るんだった。行かねば)

「お待たせしてすみません」

団体客の中の一人に声をかけられたので、香月はスマートフォンから視線を外さずに「いいえ、大丈夫です」と返答した。するとその相手は「あ……」と声をあげた。

「え?」

聞き覚えるある声に香月が顔を上げると、そこには地域活動支援センターの忘年会に参加していた透が立っていた。

「あっ」

香月は思わずスマートフォンを床に落としてしまった。慌ててそれを拾おうとしている間に透が去ろうとするものだから、「待てや!」と、ヒトリカラオケでがっつりと鍛えている声で呼び止めた。

他のセンターの利用者が驚いて振り返る。透は背筋に冷や汗が流れるのを感じていた。

「また逃げるのか」

ずんずんと透に歩み寄る香月に、センターのスタッフが「何のご用ですか」と至極もっともな質問をした。しかし、この場で香月にその「もっともさ」などは、まるで意味を持たなかった。

香月は半ば無理やり透の腕を引き寄せると、カラオケの受付係にこう告げた。

「フリータイム、アルコールのドリンクバー付きでお願いします。あ、二名で」


生活に必要なのは「慣れること」だと神谷は感じている。ただし、必要なことが大切なことと決してイコールではないことも。

由衣のいない生活、昌弘が実家から去った生活。変化にはいつも痛みが伴った。その痛みはしかし、独りで抱え込む性質のものではないということも、いつしか理解するようになった。マグがいて、美咲がいて、朋子が出入りするようになって、今度は魔女が居座って。

人間とはきっと、季節に似ている。自分自身は気づかないのだ、自分が移ろい漂っていることや、出会いや別れがあまねく偶然と必然の織り成す軌跡、そして奇跡そのものだということに。

神谷は居住スペースの隅に置かれた仏壇に置きっぱなしの、ほんの少しほこりをかぶってしまったリンを鳴らして手を合わせた。

マグの誕生日、それは昌弘とマグが出会った日である。それから数年後には、それが由衣の月命日になることなど、マグを拾った当時は考えもしなかった。いや、考えたくなかったから考えずにいただけ、なのかもしれない。

なぜなら、いつ別れが来てもおかしくなかったのだから。


仔猫がこの家にやってきたあと、昌弘はかたくなに「飼う」といってきかなかった。喫茶店に猫だなんて、と反対したが、動物病院へ通ってワクチンの接種など必要なことはすべて自分でするし、必ず面倒をみるからと昌弘は言い張った。

「私も、この子と一緒に過ごせたら嬉しいな」

昌弘の熱意溢れるプレゼンも神谷の心を動かしたが、由衣のその一言が決め手となった。

翌日、昌弘は学校が終わると由衣と一緒に仔猫を連れて近所の動物病院へ足を運んだのだが、そこで意外なことを獣医から尋ねられた。

「この子、本当に拾ったんですか?」
「はい。なんでですか?」

毅然と答える昌弘をまっすぐ見て、その獣医はこういった。

「この子は純血の三毛猫、それもオスです。出す場所に出せば数千万円はするでしょう。それだけ希少価値の高い猫です」
「ええっ」
「それだけではありません。個体差はありますが、遺伝子の染色体の関係で、他の猫よりも寿命が短い可能性があります。もし飼うとしたら、ストレスの少ない環境で、のびのびと育ててあげてください」

獣医からそう伝えられた昌弘は、その日の帰りに商店街の鮮魚店に寄った。

「こいつに好きなもん、たくさん食べさせてやりたいんだ」
「でも昌弘、猫が魚を好きっていうのは俗説だよ」
「ゾクセツってなに?」
「えっと……」

由衣が言い終える前に、仔猫は元気よく昌弘の腕を飛び出して、サク状のマグロの赤身を文字通り食い入るように金色の両目でじっと見つめだした。

鮮魚店の主人がそれに気づき、「元気なにゃんこだね」と笑ってくれた。

「うちのマグロは一級品だよ。この街には海こそないけど、毎朝豊洲までおっちゃんが行って、この目で仕入れてるんだ」

自信満々にいう鮮魚店の主人に、昌弘はポケットからありったけの小銭を取り出して「それ、ください」と真剣な表情でいった。もちろん、金額としてはとても足りない。由衣が「すみません」と財布を取り出して残額を払おうとしたのだが、主人は「いいよいいよ」と笑顔で返した。

「こんなかわいいにゃんこに俺の目利きを認めてもらっちゃ、まけないほうが嘘からね」

そんな経緯で、仔猫が正式に神谷家の一員になった日、食宅には立派なマグロの刺身が並んだ。

「こいつのおかげなんだ」

昌弘が誇らしげに仔猫を見やる。マグロの切り身を分けられた仔猫は、はじめて昌弘が見つけたときとは見違えるほどの元気を取り戻して、出された分をぺろりと平らげてしまった。それを見た由衣が感激して、ぽんと手を打った。

「そうよ、名前。この子の名前は『マグ』にしましょう」
「マグ?」

神谷は苦笑したが、由衣は心から楽しげにこう続けた。

「そう。マグロが好きだから、マグ。ね、決まり!」


マグはすぐに神谷家のアイドルとなった。必要な予防接種などの措置を済ませ、自宅兼店舗の中を自由に行き来できるようにしてやりたいという想いから、神谷は食品衛生責任者の資格を取得しようと保健所に申請をした。

猫カフェなどと質を異にするため、書類審査こそすぐに通ったものの、視察審査に訪れた保健所の職員は、マグをじろじろと見てこう言い放った。

「このネコ、オスの三毛猫じゃないですか。きちんとしたブリーダーに売り飛ばせば、一生遊んで暮らせますよ」

頭に沸騰した血が上りそうになった神谷だったが、由衣がにこにこと「自分の家族を売るなんてご発想、我が家にはありませんので」と、毅然として返してくれたので、どうにか難を逃れた。ここで保健所の職員に食って掛かっても、自分たちが不利になるだけだと由衣は判断したのだ。

由衣は本当に、聡明な女性だった。


昌弘が母親の法要に戻ってこなかったのは、もしかしたら自然なことなのかもしれなかった。七回忌、といわれても母親が旅立った喪失感が薄れるわけではないし、実家に戻って仏壇や遺影をみれば突然訪れた悲しさや虚しさが、まるで終わりを知らない漣のように戻ってくるだろうから。

(俺は、ダメな父親だな)

神谷は、マグを抱いて微笑む由衣の写真を見ながら呟いた。

「ごめんな、母さん」


「昭和歌謡ってのはなんでこう、不倫の歌が多いのかね!」

一向にマイクを放す気配のない香月は、むちゃくちゃな質問を透にぶつけた。

「なーにがあなた色に染まるだ、愛をつぐなうだ! なんでいちいちめそめそとしなきゃならんのだー」
「さあ……」
「沢村っ、あんたも歌え!」

ドリンクバーのサワーで悪酔いした香月がもう一本残っていたマイクを透に押し付けるように渡してきたものだから、ここで抵抗するのは得策ではないと感じた透はひとまずそれを受け取る。

センターの忘年会でも聞き役に徹していた透だったから、マイクを手にしてもなにをどうしていいのかがまるでわからなかった。

香月はそんな透に構うことなく、タブレット型リモコンを操作して次の曲を予約した。画面に現れたのは、島倉万代子の「人生さまざま」。ド演歌のイントロメロディーが流れだすと、香月は「ほんとそれな!」と叫んでマイクの音量を上げた。

歌詞を睨みつけて歌う香月を横に、ここはおとなしく従っておくのが得策だと判断した透。しかしながら、香月がサビでおいおいと泣き出してしまったものだから、透はやはりどうしたらいいのかがわからずに、ウーロン茶片手にじっと彼女の泣き声に耳を傾けていた。

第十三話 見えざる刃 に続く