第十三話 見えざる刃

ゴミ捨てのために裏口のドアを開けて一息つくと、吐いた息が真っ白になった。あっという間に指の先まで冷たくなったので、暖めようと手をこすりあわせた。

ふと空を見上げると、夕暮れ時ののどかな空に滔々と雲が流れている。あー、と思わず声を出しそうになる。渡り鳥の飛影が駅前のビル群をかすめて、遠く遠くへ去ってゆく。

あの中のひとつが、きっと大切な人の化身なんだ。渡り鳥はいつだって気まぐれで、だから地に足をつけて歩くしかない人間は寂しさを優しさで埋めながら生きていかなければならない。生きていかなければならない、という命題がちょっとだけ息苦しい日には、泣いてもいいのかもしれない。

(でも私は、笑っていなきゃ)

美咲は、いつ自分に涙を許していいのかずっとわからないでいた。

自分が笑っていないと、人を笑顔にするスイーツなど作れるわけがないのだから。

目をつむれば、由衣にねだってガトーショコラのレシピを教わった日のことを、昨日のことのように思い出せる。

「今から、魔法の呪文を教えるよ」

そう笑って由衣がケーキの生地へ唱えたのは、「美味しくなってね」の一言だった。

美咲には、由衣がまるで本物の魔法使いのように見えた。春の陽だまりのような優しい笑顔が、ほんとうに大好きだった。

去り際に渡り鳥の隊列が、一瞬だけ乱れた。

(ああ)

一番左端のあの子が、もしかしたら。


寒さが厳しさを増す街で、透はずっとひとりぼっちだと感じてきた。そんな孤独は彼に自分自身を許すことから目を背け続けさせてきた。

国立大学の大学院修士課程にいたといえば、ほとんどの人が「すごいね」「さすがだね」などといって褒めそやしてきた。その経歴はもはや、透にとって足かせでしかなかった。

孤独から逃れられないという意味で、せっかくの地域活動支援センターも彼にとってあまり居心地のいいものではなかった。

(せっかく、よくしてもらっているのに)

自分は、誰とも噛み合うことのない錆びついた歯車として命を費やしていくのだろうか。

(――だったら、いつ終わっても)

香月の熱唱する演歌をBGMのように聞き流しながら、果てのない絶望感に透は思わず両手で顔を覆った。

「それ」は、彼のそんな様子を決して見逃さない。

「だから言ったじゃない」

透の目の前で、コトノハで出会った少女――朋子がにやにやと笑っている。

「あなたには、才能がなかったんだよ」

そういって、朋子がこちらに目には見えないくだものナイフを差し出した。

「ほら、早くして」

「え……」

「早くしてよ」

「何を――」

視界が徐々に歪んで、朋子の姿が黒くてぐにゃりとした影に化けていく。透はそれをただ立ちすくんで見ていることしかできない。

「早くしろ」

黒い影が強い口調で命令する。悲しいかな透は、その言葉に抵抗する術を持たない。鼓動が一気に高揚し、負の衝動が彼を飲み込もうとしていた。

「切りなさい」

ラジオのノイズのような耳障りな声で、その影は何度も透を脅してくる。

「切ってしまいなさい」

「……」

「あなたは、罰を受けるべきなんだから」

「……はい」

ぽつりと返事したその声は、しかし歌唱中の香月には気づかれない。

透は震える手で影から差し出されたナイフ――それはもちろん幻覚で、実際には何も握ってはいないのだが――を手にし、左手首にあてがった。

「う……っ」

影に命じられるまま、透は見えないナイフを左手首に滑らせる。存在するはずのない痛みが、透の体に激しくほとばしった。

「あーっ!」

突然の透の叫び声に、香月は驚いて歌唱を中断した。カラオケ曲のガイドメロディーだけがボックス内に響く。

「え、え?」
「あ、ああ、うあーっ!」

手首をおさえてソファーの上でのたうちまわる透の尋常ではない様子に、香月はマイクを放り出して駆け寄った。

「どうしたのっ、沢村くん」
「痛い、痛い、痛い」
「痛い? どこか怪我したの?」

『だから言ったじゃない』

「ごめんね。音、すぐに止めるね」

『あなたには、才能がなかったんだよ』

戸惑いながらも心配して添えようとした香月の手を、透は決死の形相で払い退けた。

「うるさい、黙れ、黙れ!」
「沢村くんっ」
「黙ってくれよ……!」

香月は透の呼吸を整えるために肩を抱き、「一緒に深呼吸しよう」と声をかけた。何度も拒む透の手に、それでも自分の手を添え続ける香月。

「こっち見て」
「うう、ああっ」
「大丈夫だよ。大丈夫」
「……お願いだから……っ」
「えっ」
「頼むから、もう何もかも終わらせてくれよ!」

透の悲痛な叫びに、香月は激しく動揺した。うわべの励ましの言葉など、今の透には全く意味がないどころか逆効果だ。

香月は「ごめん」とうなだれて口をつぐんだ。

それからしばらくの間、二人の目の前には設置された画面から最新曲のプロモーションムービーや流行りのアーティストのミュージックビデオが淡々と流れるだけの、ぎこちない空間が広がった。

香月は酔いが一気に醒めてしまったらしく、透が気を遣ってドリンクバーから取っておいてくれたアイス緑茶を一気飲みした。

透は茫然と前を向いたまま、ずっと微かに肩を震わせていた。

しかし、画面の中で若いアイドルたちが作り込んだ笑顔で露出度の高い衣装に身を包み、「こんにちはー!」とこちらに手を振ってるのを目にして、「……大丈夫なんかじゃないって、言ってもいいのに」と唐突に呟いた。

「え、この子たち?」

香月が画面を見ると、その女性アイドルたちはしっかりと練習を重ねたと思われる振り付けでポップスを『楽しそう』に歌い出した。

「……この子たちも、三山さんも」
「私?」
「大丈夫じゃないなら、そう言っていいのに。どうしてあの子は、笑顔でいるんだろう」
「『あの子』?」
「あの子は、いつも笑顔なんだ。こんな僕にも他の人と変わらず笑いかけてくれた。でも僕は、あの子が一生懸命に、いや、無理をして笑顔になっている気がして、それが少し悲しかった。本当は泣きたいときだってあるだろうに。まるで自分の使命みたいに、あの子はいつも笑顔なんだ」

香月は眉を寄せてしばし思案し、「もしかして」と透をうかがうようにいった。

「もしかして、美咲ちゃんのこと?」

透は静かに首肯した。画面からは、電子音に装飾されたクリスマスソングが流れていた。


「それで、それからどうされたんです?」

透の主治医、隅田は決して透を咎めるようなことはせず、彼の話を傾聴した。

「ナイフの幻覚と幻聴は、すぐに消えました。念のため頓服を飲みました。三山さんとはカラオケボックスで別れて、その日は家に帰りました」
「その夜は眠れましたか?」
「はい」

隅田は深く頷いて「それは良かった」とほほ笑んだ。「薬はどうしましょうね」と意見をきいてくる隅田に対し、透は思い切って挙手をし、発言を求めた。

「どうしました?」
「あの。わからないので教えてほしいのですが」
「なんでしょう」
「先生は、どうして指示を出されないんですか?」
「指示、ですか?」
「はい。僕のような患者に、なぜ『こうしろ』と指示をされないのでしょうか」

隅田は「うーん」とボールペンを手でくるくるさせながら透の質問に答えた。

「私は、あなたをこの場とカルテ上でしか存じ上げません。それだけの人間に、なぜあれこれと指示など出せるでしょうか」
「でも……」
「沢村さん」

隅田は、戸惑う透の顔をまっすぐに見ながら、こう告げた。

「薬や診察は、あくまできっかけや補助に過ぎません。あなたは、あなたの人生をご自分で耕さなければならない。もしかしたら冷たく聞こえるかもしれませんが、それが現実です」
「……それは、そうかもしれませんが」
「私の見解を伝えさせてください。あなたに本当に必要なのは、薬でもなければカウンセリングでもない」
「では、何なのですか」
「やはり、自分の望みを知ることではないでしょうか」

隅田にそう言われて、透は黙りこんでしまった。

そうして、想いを懸命に自分の望みへと巡らせようとした――たった一つの、叶わなかった願いごとに。

第十四話 笑顔でいなきゃ に続く