「観たかったんだ、『君の名は。』。みんなすごい良いよって言ってるから」
「まだ、上映してたんだね。よかった」
真一は財布を出そうとする桃香を制し、自分の財布から二人分のチケット代を出した。
「割引、使えるから」
と言って窓口に障害者手帳を見せた。桃香は一瞬だけ怯む。現実を見た気がした。
「はい、これ」
渡されたチケットの隅には、『障害者割引』の文字。
「……」
「さ、行こう」
「……うん」
考えた。人を愛するって、今更だけど、どういうことなんだろう? 映画に感化されたのか、桃香は真剣に考えていた。観終わった後、近くの喫茶店に入ってから、桃香はずっと無言だった。真一も特に急かす様子もなく、コーヒーが運ばれてくるのを待っている様子だった。
「面白かったね」
真一がポツリと言う。
「うん」
「あんな展開になるとは思わなかったなぁ」
「うん……」
「…………」
しばらく沈黙が続いてから、ちらっと真一が腕時計を見て、
「水、もらおうかな。薬の時間だから」
そう言うので、桃香は思い切って、「何の薬?」と問うてみた。真一は少し戸惑ったが、すぐに率直に返答した。
「……夜の分だよ」
「だから、何の薬?」
食い下がる桃香に、真一はどうにか彼女をなだめようと、静かな口調で言った。
「発作を抑える薬と、症状を緩和する薬」
桃香は声を潜めて、
「せ、精神科の……?」
彼女がまるで禁忌でも口にするように言うので、真一は少しだけ心を痛めた。
「うん。昔は何錠も必要だったけど、今はこれだけ」
差し出された真一の手には、『リスパダール』『デパス』と書かれたヒートがのっている。
「……ごめん」
桃香は目を逸らした。
「なんで謝るの」
「いや、別に」
店員がここでコーヒーを運んでくる。コーヒーの香りが心地よかったが、今の二人にはあまり効果がないようだった。
「桃香は、何を飲んでるの?」
桃香はギクッとした。こんな話題、誰かに聞かれたら困る。変な目で見られてしまう。
ところが、真一はまるで世間話でもするような感覚で、
「『はじめの頃』は俺、ベゲタミンもらってたんだ。赤玉の方。それでも眠れなくてね。他にも色々飲んでたけど、副作用で太っちゃって大変だったよ」
「…………」
「想像つかないでしょ。食欲が抑えられなくて、苦労したなぁ」
「…………」
「今は随分進歩したよね。単剤処方がトレンドなんだってさ」
「……やめて」
「え?」
「映画の話、しよ?」
真一はますます気持ちを暗くした。あたかもこういう話題が憚りごとのように感じるのだろうか、と。
「最後はグッと来たよね。私、泣いちゃった」
「うん……」
「ずっと観たかったから、嬉しかったよ」
「そっか。それは良かった」
「みんながいいって言うのもわかるなぁ」
真一は水が注がれたグラスを手にして、リスパダールを1錠飲んだ後、軽く咳払いした。
彼のその動作に、桃香は敏感に反応した。
「えっと……」
「そろそろ、帰ろうか。江古田まで送るよ」
「あ、うん」
そんなこんなで、初デートは散々だった。帰り道も言葉少なに、どことなく気まずい雰囲気が漂っていた。
家に帰ってからも、桃香は悶々と考えていた。
誰かを好きになるのは簡単だ。恋は、落ちるものだから。でも、誰かを愛するって、どういうことだろう。恐らく、簡単じゃない。それはわかっているけれど、でも、じゃあどうしたらいいんだろう。
どうして自分は怯んだ? 彼が精神障害者だからか?
そうかもしれない。でもそれは、彼を否定する理由にはならないはずでは。だって、わかっていて好きになったんだもの。
でも、そういえば私は彼のことを何も知らない。
……知りたい。
知らなきゃ。
きっと私には、その義務がある。
次に逢えるのが明後日だ。桃香はスマホを取り出し、LINEを起動した。
「今日はありがとう。次は、ゆっくり話せる場所がいいな」
「もっとお互いの話をしよう」
「ゆっくり休んでね。なんだかごめんね」
返信が待ち遠しかったが、一方で怖くもあった。きっと真一の機嫌を損ねてしまっただろうから。
なかなか返事は来なかった。
寝支度をして、ベッドに潜り込んだ頃、スマホが鳴った。
鼓動が高まる。
しかし、画面に表示されたのは、真一の名前ではなかった。
「あ…………」
ラインではなく、メールだった。差出人は『服部由美』とある。
それは、桃香の母親の名前であった。
第十四話 桃香の事情 に続く