第十四話 桃香の事情

桃香は両親からの仕送りで暮らしている。たまに体調がいい時にアルバイトをする程度で、すぐに不調になってしまうため、なかなか就職できないでいる。

彼女はいわゆる、お嬢様だ。桃香の父親は大企業で専務をしている。

厳しい父と、父に言いなりの母と、高慢な兄に囲まれて育った。桃香が精神に変調をきたしたのは、大学在学中であった。

まず、眠れない日が続いた。失恋がきっかけだったのかは、本人ももうよく覚えていない。

次に、人混みがダメになった。後ろから刺される、誰かに襲われるという妄想に駆られ、外出ができなくなった。

部屋に閉じこもった娘に、母親は冷たくあたった。心配するどころか、叱責した。父親は無関心だった。無関心以上の暴力はないと桃香は感じた。毎日繰り返される母親の無理解からくる詰問に、桃香の体調はいよいよ悪化した。

ある時、突然彼女は外出した。しかしそれは、死に場所を求めての行動であった。最寄りの地下鉄の駅のホームをフラフラと歩いていたところを、不審に思った駅員が捕まえた。事情を聞こうにも、すでに妄想の支配下にあった桃香とコミュニケーションがうまくとれず、様子がおかしいということで近くの精神科病院と親へ通報された。

当時のことはよく覚えていない。だが必死だったのは覚えている、文字通り「死のうと」。

その後、医師とソーシャルワーカーの助言で、親から離れて暮らすこととなって一年。大学は中退した。

いつまでもこんな生活が続くとは思えないし、いい加減親の呪縛から逃れたかった。だが、親の支援なしでは生活できないのも事実だ。

私の方こそ、彼に伝えなければならないことだらけではないか。

そうだ、私は、私たちは、お互いのことを知らなさすぎるんだ。


アパートの隅に拡げた真っ白な画用紙に向かって、真一は沈黙していた。煙草を片手に、深く呼吸する。煙を吸い込めば、少しは紛らわせると思った。胸を渦巻くように支配する感情を。

しかし、時間が経てば経つほど、その不安は増大していく。部屋に響く時計の秒針の音が、それを助長しているようだった。

灰皿に押し付けて潰すように煙草の火を消すと、真一は煙草をクロッキーに持ち替え、画用紙に向かい、絵を描き始めた。

クロッキーはおろか鉛筆すら、危険物だとされて奪われた日々があった。精神科病棟では異食の危険性があるとのことだった。

何も描けないのが苦痛だった。症状が治まってもなお、絵を描くことに許可が下りなかった。だから、ひたすらスーパーマーケットのチラシをちぎり、コラージュにして気を落ち着かせていたのを思い出す。

あの不自由な日々を越えて、やっと手に入れた、自由。その自由にくっついて来た孤独すら、今は満たされようとしている。

しかし、本当にこのままでいいのか? 違う。怖いのだ。恋の喜びは、愛することへの責任を連れてくる。

人を愛するとは、一体どういうことなのだろう。体を許すことか、心を開くことか、その両方なのか。

今の真一にはまだ、わからなかった。

ただ、真実を伝えなければ先に進めないことは、彼に理解できた。

そうだ。俺はあの子のことを何も知らないじゃないか。

画用紙に向かっても無心になれない。恋とはなんと罪なものなのだろう。

第十五話 横顔 に続く