クリスマスイブは人々にえもいわれぬ高揚感を与える。街なかは昼間からイルミネーションとクリスマスソングで賑々しく盛り上げられ、通りを歩くカップルはほとんどが手を繋いでいた。いつも座って空の表情をスマートフォンで撮影する公園のベンチにも、軒並みカップルが寄り添っていた。
寂しくないといえば嘘になるが、羨ましいとは思わない。
(今日、みんなにあいさつができればそれで、もう)
見上げると、早くも傾き始めた冬の太陽が弱々しく西日をのばしていて、その周りを気ままな雲たちが漂っている。以前ならスマートフォンのカメラを向けたであろうその空に、彼は心の中で(いずれ、そちらへ)と呟いた。
公園通りを抜ければ商店街の入口はもうすぐだ。商工会議所のものらしいビルの正門前に、地元の小学生たちが描いたポスターが貼られていた。
「なくそう さべつ やめよう いじめ」
水彩絵の具で描かれた笑顔のイラストとその文言に、わずかな苛立ちを覚える。子どもたちにこんなことを描かせておきながら、差別だのいじめなどを率先しているのは大人たちではないか、と。
一瞬、刺すような頭痛がして視界がブラックアウトしたかと思いきや、突然目の前にミニシアター風のスクリーンが現れた。
予告編なしに始まったのは無声映画。そこには他でもない自分が映し出されていた。
無機質なコンクリートの空間に閉じ込められ、かび臭い布団に横たわったまま、瞳ばかりはらんらんと目の前の鉄柵を睨んでいる姿だ。
ずっと何かを叫んでいるようだが、その声は一切再生されない。誰にも気づかれないし、その場に誰も現れることはない。血走った両眼から、やがてぽたぽたと血液がしたたり落ちてきた。ひたすら自分は叫び続けていたのだ。
――助けて、と。
「なにか御用ですか?」
啓発ポスターの前で立ち尽くしていたことを不審に思われたのだろう、商工会議所のガードマンに声をかけられた。
「いえ、なんでもないです。すみません」
商店街の屋根のスピーカーから、クリスマスソングをインストゥルメンタルにアレンジした音楽がずっとかかっている。クリスマスソングから歌声を消し去ると、なぜこんなにも悲しく聞こえるのだろうか。
「おまたせー!」
15時を過ぎてまもなく、閉店したコトノハのドアベルが開いて、大ぶりのピザを3枚も持ってきた香月がやってきた。
「マルゲリータにカプリチョーザ、からのクワトロフォルマッジョだよ〜」
「香月さん、そのチョイス最高」
「まかせて。全部私の好きなトッピング」
「超重要な基準だと思います」
ビシッと親指を立てる美咲。
ピザ3枚に丸ごと一羽のグリルチキン、大盛りシーザーサラダにナポリタンと和風スパゲティ、そこへコーヒーだけではなくオレンジジュースやシャンパンも並ぶ。
「食べ切れるかなぁ」
そうつぶやく香月に、美咲は自信満々にいった。
「これだけじゃないんです。『コトノハスペシャル・メリークリスマスバージョン』もあります!」
「なにそれ?」
「朋子ちゃんと一緒に作った特製スイーツです! ね、朋子ちゃん」
「え、あ、うん」
朋子は相変わらず上の空である。クリスマスイブの朝、いよいよその度合いはエスカレートし、美咲は「具合悪いの?」とまで心配したのだが、「ううん、ううん。何でもない!」としか答えないので、それ以上は問わないことにした。
だんだんと日が暮れてきて、ヨーコが輸入したクリスマスオーナメントたちが西陽を受けてきらきらと輝きを増してきた。美咲の腰丈ほどのツリーにはLEDのクリスマスライトとキャンディーケーンにひいらぎ、頂点には丸みを帯びた大ぶりの星が飾られている。
「さあさあ、はじめようか」
神谷が声をかけると、香月と美咲が拍手した。朋子は落ち着かない様子でずっとドアのほうを見ている。そんな彼女の肩に、ヨーコがぽんと手を置いた。
「乾杯しましょう」
「あ、はい」
美咲が「みんないいですかー?」と声をかけると、めいめいに返事があったのだが、一番元気よく返事したのがマグだったので、その場はあたたかい笑いに包まれた。
「かんぱーいっ!」
グラスを交わす音がして、のんびりとコトノハのクリスマスパーティーが始まった。BGMはヨーコのリクエストで、モダン・ジャズが店内に流れている。
「うまっ、このシャンパンうまっ!」
香月はヨーコの差し入れた洋酒類にさっそく口をつけて、その味と香りに感激した。
「いいなり飛ばすわね。でもそれはいいお酒だから悪酔いしないのよ」
「香月ちゃん、そうはいっても飲み過ぎたらだめだよ。仕事に響くでしょ」
神谷がそう諌めても、香月はすっかり上機嫌で
「それは、仕事に響かなきゃ飲んでもいいってことですね?」
というので、またもやコトノハにはどっと笑い声が起こった。
それからしばらく和やかに談笑が続いていたのだが、香月が「酔いが回りきる前にプレゼント交換したい!」と言い出したので、美咲も「そうしようそうしよう!」と応じた。しかし、それに対して朋子が「待ってください」と一転して真剣な表情でいったので、その場の空気が一気に張り詰めた。
「お願いです。それは、もう少し待ってください」
「朋子ちゃん、気持ちはわかるけど」
香月が朋子をなだめるが、朋子は何度も首を横にふってそれを拒んだ。
「私は、待ちます」
「朋子ちゃん……」
朋子の気迫に、その場が静まり返ってしまう。なんとも重苦しい空気が店内を飲み込もうとしていた。
ヨーコが口を開こうとしたそのとき、ドアベルがかすかにころんと鳴った。
その場にいた皆が一斉にそちらを見た。ただの風のいたずらだったのだろうか、と誰もが落胆した直後、遠慮がちにたたずむ人影がわずかに揺らいだ。
「あっ!」
美咲が声を上げる。
「沢村さんっ」
透は「怒られる」と反射的にドアノブにかけた手を引っ込めた。対照的に美咲は、「わーい、沢村さんだ!」といって弾けんばかりの笑顔でドアを開いた。
透には、まるで美咲が曇天に差し込んだ一筋の光のように見えた。
「来てくれてありがとうございます!」
そういって美咲に手を添えられ、透は何度も瞬きをした。
「ほら、朋子ちゃん」
促された朋子は、しかし返事をしない。
「朋子ちゃん?」
透の顔を一目見た朋子は、それまでの緊張がいっぺんに解かれたせいか、ぽろぽろと泣き出してしまったのだ。
「えっ、あれっ」
美咲は驚いて、ヨーコに視線でヘルプを求める。ヨーコが「朋子ちゃん、そろそろプレゼント交換、はじめてもいい?」とシャンパン片手に声をかけると、朋子は少しののちに涙を拭いて、小さく「はい」と頷いた。
ティッシュケースを改造して作ったクジの箱を「じゃーん」と効果音をつけて皆の目の前に美咲がお披露目すると、短く拍手が起きた。
「このなかに、記号が書かれた紙きれが入っていますので、一人一枚引いてください。記号は二枚ずつペアになっています。同じ記号の人とプレゼント交換ができまーす!」
そう説明する美咲に、戸惑い気味に透は「すみません」と質問を挟んだ。
「あの……そういう趣旨だとは知らなくて。僕、何も持ってきてないんですが……」
「全然OKです! だって――」
「わーっ、あーわーわわわーっ、わー!」
美咲の言葉を遮って、突然朋子が大声をあげた。
「あ、そっかそっか」
にやりと笑う美咲に、朋子は「もー!」と頬を膨らませる。
お手製のくじ箱を順番に回す。朋子が引いたのは「☆」の印だった。朋子は、透がためらいがちに、最後にくじ箱に手を入れる姿を、祈るような気持ちで見つめていた。
「はいはーい、ハートマークの人、私と交換ね!」
全員がくじを引き終えるやいなや、香月が最初に手を挙げた。「あ、俺だ」と神谷がいってカウンターの裏から、赤いリボンシールの貼られた小さな封筒を取り出した。香月が意気揚々とそれを開封すると、図書カード三千円分が出てきた。
「おー! これは嬉しい。ちょうど本が欲しいと思ってたから」
「マンガ?」
「もちろーん。マスターには、これ。銀ペン堂の万年筆」
「ありがとう」
続いてはヨーコが「♪」を引いた。その紙を皆に見せると、美咲が「私です!」と嬉しそうに同じ「♪」を見せた。
「気に入ってくれると嬉しいわ」
ヨーコが美咲に渡したのは、先端に猫をかたどった金属製の栞だった。
「わー、かわいい! 私からは『コトノハ非定期券』です」
「非、定期券?」
「はい。いつまでも、何度でもここで使えるスイーツクーポンです」
「それは、嬉しいわ」
朋子はハッとして顔をあげた。透が少し困った表情で、「☆」の描かれた紙片を持っていたからだ。
「あっ」
「ホラ、ホラホラ朋子ちゃん。早く沢村くんと交換しなよ」
香月が唆すようにいうと、朋子は「あの……」と急にもじもじして、数枚の紙が入った角2サイズの封筒を透に差し出した。
「これ、私からです」
「はい」
「私へのプレゼントは、私のお願いをきいてくれることです」
「はい?」
透は不思議に思い、すぐに封筒の中身を確認した。その中には、朋子の期末テストの答案用紙が入っていた。
第十六話 さよなら に続く