考えるのが苦痛で、だから考えたくなくて、でも、考えずにいられない。
恋って、きっと、そういうものだ。
真一の前には今、横顔の女性が描かれている。
それは桃香の面影を写しているようで、しかしどこかに影がある。
彼の見る桃香は、こうなのだ。
生まれて初めて、人を愛するということについて考えている。考えたくないのに、思考が止まらない。
大切にしたい。この身をもって守りたい。守らなければならない。Would like toか? それともmustか。たぶん、両方だ。
説明書なんてない。マニュアルなんて役に立たない。人を愛するとは、創造することに似ている。時間をかけ、相手のことを知り、もっと愛しくなってゆく。
それは、まるで寄せては返す果てのない波のよう。
真一は、ふと自分の背後にうごめくものを察知して、バッと振り返った。ただの鳥の飛影だった。アパートのベランダを横切ったらしかった。
感覚が、鋭敏になっている。あまり良くない兆候だ。それは、自分でもわかる。
縋るように煙草に手を伸ばした。だが、無情にも箱は空だった。真一はそれを握り潰すと、深呼吸のようなため息をついた。
「……桃香」
呼べば、心臓が高鳴る。これが、偽らざる自分の気持ちだ。
真一は寝室に置かれた鏡を見た。
間違いなく、赤面している。
なんてザマだろう……。
昔の自分が見たら、間違いなく馬鹿にするだろうな。
しかし、「あの日」、自分は死んだんだ、一度。そしてもう二度と振り返らないと決めた、はずだった。それでも、愛すべき、そして愛したい存在ができてしまった今、やはり向き合うべきなのかもしれないのだ。
その事実を、認めたくないけれど。
それでも、君がもしも頷いてくれるのならば……。
俺は、前を向けるかもしれない。
真一はスケッチされた横顔に優しく触れる。
こんな風に、大切に、したい。
それからの時間は、お互いにとって息苦しいものだった。お互い、相手のことを考えすぎて何も手につかない。そんな状態だったものだから、ふるーるで給与計算をしていた兵藤さんが手を止めて、大丈夫? と問うた。しかし真一は心ここに在らずに拍車がかかった状態でパソコンを凝視している。
「ね、安田くん聞いてる?」
肩を叩かれて、ようやく真一はハッとした。
「あ、スミマセン。もう一度言ってください」
「いや、大丈夫じゃないね。何かあったの?」
「……いえ、何も」
「調子が悪いとか? 幻聴がするとか?」
真一は首を横に振って、
「いいえ、大丈夫です」
「そう。ならいいけど。無理しないでよ。年末忙しくなるからね」
「はい」
年末は年の瀬のせいかわからないが、相談が増える。経済的なこと、心理的なサポート、制度的なアドバイス、その種類は多岐に渡る。
真一は相談業務の中でも、心理的なサポートを得意とする。困りごとを抱えた障害者の気持ちに寄り添うため、誤解されることも多い。つまり、「優しそうな人」だと。
しかし実際はどうだろう。人はよく真一を「優しそうな安田くん」と評価する。しかし、本人はそんなことは微塵も思っていなくて、むしろ生活に困ってやってくる人に寄り添うことを「仕事」と割り切っていられるだけ、冷めた人間だと感じている。
だが、真一は思う。自分がどんなに冷血漢でも、桃香のことを敬わない理由にはならないと。
仕事が終わり、桃香にラインを送った。
「こんばんは。明日は江古田に行くね」
すると、すぐに返事が来た。
「アンテノールってカフェだよ♪ タバコも吸えるよ!」
肩身の狭い喫煙者にはありがたい情報だ。
「ありがとう。楽しみにしてるよ」
その日、真一はいつもより多めに睡眠薬を飲んだ。どこかで綻びる「自分」という感覚を、誤魔化すため。
深い眠りにはなかなか手が届かない。真一は夢を見た。
見覚えある光景。
中学校の教室。
みんな、休み時間にワイワイ騒いでいる。
その中心で、おどけてみせる少年。
みんなから歓声が上がる。
突然、床が抜け落ちて、おどけていた少年が落ちる。
どこまでも落ちていく。
ややあって、嫌な音がした。
歓声が悲鳴に変わる。
抜け落ちた底から、こちらに声がした。地獄から這い上がるようなうめき声。
「お前だって、笑ったくせに」
真一は飛び起きた。真夜中のアパート。秒針の音と自分の呼吸だけが響いている。初冬だというのに、汗をびっしょりかいている。
気を紛らわせようと、真一はシャワーを浴びることにした。
怖い。
人にどう思われようと、今更だ。
だけど、あの子にどう思われるかが、怖い。
自分の過去を償うには、今の自分のままではダメだ。
話そう。
話さなければ、前には進めない。
シャワーのお湯のように、時ばかりがとめどなく流れていく。
取り残されるのは、いつだって弱い者だ。
このままじゃ俺は、君を守れない。
だからどうか、聞いてほしい。
許せとは言わない。ただ、聞いてほしい。
俺の犯した、罪のこと。
第十六話 弱さ に続く