祖父がそれを読んでいたのはなんとなく覚えている。中原中也の「山羊の歌」だと知るのは随分後のことだが、「サーカス」という詩の独特な表現が、妙に心に残った。
「ゆあーんゆよーん ゆやゆよん」。
再生されるのは、優しかった祖父の声。
両親が毎日のように喧嘩しているのを部屋の隅で怯えながら育った。両親は、自分の目には醜く映った。反面教師というやつで、ああはなりたくないと、心底感じていた。
両親に対して、尊敬のかけらも無かった。だから、中学校に入ってすぐにドラッグストアでカラーリングを買ってきて、ほぼ金色に近い茶髪に染めた時に母から叱咤されても、全然聞く耳を持たなかった。
「あんたには失望したわ」
そんなことを言われても、そもそもあんたにどう思われようが関係ない、というのが正直なところだった。
当然、クラスでも目立ったし、教師も目くじらを立てた。しかし、真一にとって何もかもがどうでも良かった。生きていることすら、どこか面倒だった。
例に漏れず、真一の通う中学校にもいじめは存在していて、体格のぽっちゃりした女の子が陰湿な手段で自尊心を潰され不登校になったり、空気の読めないタイプの男の子がやはり嫌がらせを受け転校したりと、息苦しい現代社会の縮図のような光景は広がっていた。
だが、真一には全てが虚しく感じられた。誰が何を言おうとしようと、俺は俺以外の俺にはなれないのだから。
ある時、クラスでも笑いの中心にいていつも皆の前でおどける役を買っていた男子と、放課後偶然二人きりになったコトがあった。名を、澄川といった。澄川は、いつものような陽気さと打って変わった表情を真一に見せた。
「なぁ、安田はなんで髪なんて染めてんの? そんなことしたら目立っちまうだろ」
「……さぁね。俺の髪が何色だろうと、俺の自由だろ」
「校則違反だぜ」
「知るか」
澄川は「カックイイ~」と茶化したが、すぐに真顔になって、
「この先さ」
「あ?」
「これから先、俺たち、どうなるんだろうな」
真一は冷めた表情を崩さなかった。
「それこそ、知ったことじゃねーよ。進路の心配なら教師にしろ」
しかし澄川は首を横にブンブンと振った。
「そうじゃない。そうじゃないんだよ」
そうして真一の制服の着崩したブレザーの袖を引っ張り、「お前になら、見せてやってもいい」などというので、真一はさすがに訝しんだ。
「俺、もう夏服着れないんだよ」
そう言って澄川が見せたのは、腕中に刻まれた、アームカットの傷跡。まだ、新しいものもある。
さすがに真一は驚いた。
「お前、それ……」
「ダメなんだ」
いつも教室で皆を笑顔にしている澄川からは想像もつかない表情で、
「不安なんだよ。とにかく、怖いんだ、こうでもしないと、俺、おかしくなっちまいそうで」
「……」
なんと声をかけていいのか、わからなかった。
それが、当時の真一の決定的な弱さだったのかもしれない。
「……バカじゃねぇの」
出てきたのは、そんな言葉だった。この言葉を、真一は後に果てなく後悔することになる。
澄川はやや間を空けてから、急にケタケタ笑い出した。
「あ、やっぱそう? だよな! ごめんごめん、忘れてくれ!」
あはは、じゃあな、と笑い残して、澄川は駆け足で去っていった。
それが、澄川を見た最後になった。
あくる日、担任の教師が暗い面持ちでホームルームを始める。いつものルーティンだと生徒の誰もが思っていた。だから、真一もまた、いつものように髪の毛をいじっていた。
担任から開口一番で伝えられたのは、澄川の訃報だった。
「事故だ」
担任の言葉が嘘であることを、ほとんど真一は本能で察した。
自宅のマンションのベランダから、「誤って」転落したという。
ざわつく教室内。
泣き出す女子生徒、固まる男子生徒、悲鳴のような声を上げる女子生徒、マジ!?と呟く男子生徒そして沈痛な面持ちの教師。
みんな、嘘つきだ。
真一は別れ際の澄川の笑みを思い出した。
一番の卑怯者は誰だ?
……俺じゃないのか!
第十七話 アトリエ に続く