江古田の喫茶店で、彼女は静かに涙を流しながら、彼の手を握っていた。彼女の精一杯の力で、握りしめていた。
彼の口から語られた話を、桃香ははじめはじっと聞いていた。しかし、話し終えた真一の様子が明らかにおかしいことに気づいた彼女は、とっさに手を握ったのだ。
彼の呼吸が早くなる。鼓動が駆け出す。
徐々に彼の耳の奥から、あるいは頭の中で響き、蠢き始める、嫌な声。
笑い声。笑い声。笑い声。笑い声。笑い声。
「……っ!!」
彼は座ったままよろめいて、左手で頭を押さえた。
――消えろ、消えてくれ。
「「「消えるのはおまえのほうじゃないのか?」」」
うるさい。うるさいうるさい。
「「「じゃあ、永遠に黙ってやろうか。『あいつ』みたいに」」」
お前は、誰だ。
「「「お前こそ、誰だ?」」」
「……あぁ……」
彼は彼女の手を強引に振りほどいた。はずみで灰皿を倒してしまう。散乱する煙草。あっけなく堕ちていく、感覚。
ガラス製の灰皿に映った、真一の両目に狂気が灯る。
「やっぱり、ダメなんだ」
彼は低い声で呻く。
彼女は気丈に、言葉をかけ続けた。
「何が、ダメなの」
「忘れることなんて、できないんだ」
今まで聞いたことのないような、重たい声。まるで、獣のような。
「どうして俺は……なんて身勝手な……」
独り言のようにぶつぶつと呟く。
彼女は散乱した煙草を片付けながら、しばらく黙していた。
彼の気の済むまで、このままでいさせてあげようと。苦しませてあげようと。
「んん〜……んん……」
彼はふと、鼻歌を歌い始めた。それは一昔前の流行歌。中学時代によく聞いた歌、レミオロメンの『粉雪』。
彼は、彼を許せていない。そしておそらく、自ら命を絶った級友のことも、許していない。自分は、手放しで幸せを謳歌できるような人間ではないと感じている。
では、許せないということはどういうことなのか。
それはきっと、忘れないということだ。その身から離さずに、解き放たずに、見捨てずにいるということだ。つまり、想い続けるということなのだ。
最後に級友が見せた、笑顔の意味を彼は問い続けている。
彼女は彼の代わりに泣いたわけではない。そんなことはできないし、そんな傲慢なことはしたくなかった。ただ、彼を苦しめている過去の思い出が、あまりに悲しく、また彼の繊細すぎる優しさに触れ、自然と涙が込み上げてきたのだ。
許せないなら、許さなければ良い。そうして、忘れなければ良い。そう、思い続けることこそが人を偲ぶことなのだから。
喫茶店のBGMには、オルゴール調の『カノン』がかかっている。二人の間には不思議な空間と時間が流れていた。鼻歌を歌い続ける彼の目には、うっすら涙が浮かんでいる。彼女は何度も手を握り、体温を伝え続けていた。
今は、こうすることしか、できないから。
あなたの世界がどんなに醜く閉じたとしても、私はここにいるよ。
あなたがどんな想いを背負いながら生きていても、私は、そばにいるよ。
ありのままのあなたを、私は敬うことでしょう。
そして、もしもその思いが伝わらないとしても、私はあなたを想い、ずっとこうしていることでしょう。
彼女の頬を伝う、涙。
あなたはずっと苦しんできた。もう、いいんだよ。もう、大丈夫なんだよ。
「大丈夫。きっと、大丈夫」
自然と出てきた言葉だった。お守りとして、もらった言葉。しかし、彼はそれに、異様な強反応を示した。
「――……何が、『大丈夫』なんだ……」
そう呟き、暗い光を灯した目で、彼女を睨みつけてきた。
第十九話 手を繋ぐ に続く