第十八話 許さないということ

江古田の喫茶店で、彼女は静かに涙を流しながら、彼の手を握っていた。彼女の精一杯の力で、握りしめていた。

彼の口から語られた話を、桃香ははじめはじっと聞いていた。しかし、話し終えた真一の様子が明らかにおかしいことに気づいた彼女は、とっさに手を握ったのだ。

彼の呼吸が早くなる。鼓動が駆け出す。

徐々に彼の耳の奥から、あるいは頭の中で響き、蠢き始める、嫌な声。

笑い声。笑い声。笑い声。笑い声。笑い声。

「……っ!!」

彼は座ったままよろめいて、左手で頭を押さえた。

――消えろ、消えてくれ。

「「「消えるのはおまえのほうじゃないのか?」」」

うるさい。うるさいうるさい。

「「「じゃあ、永遠に黙ってやろうか。『あいつ』みたいに」」」

お前は、誰だ。

「「「お前こそ、誰だ?」」」

「……あぁ……」

彼は彼女の手を強引に振りほどいた。はずみで灰皿を倒してしまう。散乱する煙草。あっけなく堕ちていく、感覚。

ガラス製の灰皿に映った、真一の両目に狂気が灯る。

「やっぱり、ダメなんだ」

彼は低い声で呻く。

彼女は気丈に、言葉をかけ続けた。

「何が、ダメなの」
「忘れることなんて、できないんだ」

今まで聞いたことのないような、重たい声。まるで、獣のような。

「どうして俺は……なんて身勝手な……」

独り言のようにぶつぶつと呟く。

彼女は散乱した煙草を片付けながら、しばらく黙していた。

彼の気の済むまで、このままでいさせてあげようと。苦しませてあげようと。

「んん〜……んん……」

彼はふと、鼻歌を歌い始めた。それは一昔前の流行歌。中学時代によく聞いた歌、レミオロメンの『粉雪』。

彼は、彼を許せていない。そしておそらく、自ら命を絶った級友のことも、許していない。自分は、手放しで幸せを謳歌できるような人間ではないと感じている。

では、許せないということはどういうことなのか。

それはきっと、忘れないということだ。その身から離さずに、解き放たずに、見捨てずにいるということだ。つまり、想い続けるということなのだ。

最後に級友が見せた、笑顔の意味を彼は問い続けている。

彼女は彼の代わりに泣いたわけではない。そんなことはできないし、そんな傲慢なことはしたくなかった。ただ、彼を苦しめている過去の思い出が、あまりに悲しく、また彼の繊細すぎる優しさに触れ、自然と涙が込み上げてきたのだ。

許せないなら、許さなければ良い。そうして、忘れなければ良い。そう、思い続けることこそが人を偲ぶことなのだから。

喫茶店のBGMには、オルゴール調の『カノン』がかかっている。二人の間には不思議な空間と時間が流れていた。鼻歌を歌い続ける彼の目には、うっすら涙が浮かんでいる。彼女は何度も手を握り、体温を伝え続けていた。

今は、こうすることしか、できないから。

あなたの世界がどんなに醜く閉じたとしても、私はここにいるよ。

あなたがどんな想いを背負いながら生きていても、私は、そばにいるよ。

ありのままのあなたを、私は敬うことでしょう。

そして、もしもその思いが伝わらないとしても、私はあなたを想い、ずっとこうしていることでしょう。

彼女の頬を伝う、涙。

あなたはずっと苦しんできた。もう、いいんだよ。もう、大丈夫なんだよ。

「大丈夫。きっと、大丈夫」

 

自然と出てきた言葉だった。お守りとして、もらった言葉。しかし、彼はそれに、異様な強反応を示した。

「――……何が、『大丈夫』なんだ……」

そう呟き、暗い光を灯した目で、彼女を睨みつけてきた。

第十九話 手を繋ぐ に続く