美咲は夜空を見上げて、ふっと白い息を吐いた。
「笑顔でいるとね、強くはなれないかもしれないけど、自分のことをもっと好きになれる気がするんです」
点灯した公園の街灯の光が、美咲と透、そしてマグを穏やかに照らしている。
「沢村さん、いやもう透さんでいっか、透さんが今話してくれたこと、とてもつらい過去のこと、それもやっぱり、私は『大切』だと思います」
「……」
透の脳裏に、保護室で味わった屈辱的な処遇の数々が蘇る。少なくともあの病院は、治療の場などではなかった。狂気という、最大化した苦悩に囚われた者たちを社会から隔離する場所に他ならなかった。
苦悩から逃れえない限り、病院の外に自分の居場所などどこにもないと思ってきた。こんな病気になってしまった自分には、もうどこにも居場所がないのだと。
だが、それでもなお、この子は自分に笑顔を向けるのだ。――両目から涙をこぼしながら。
「えへへ。もらい泣きしちゃった」
「え?」
美咲の言葉で、はじめて透は自分が泣いていることに気がついた。
「苦しかったんですね」
「……」
美咲は眠るマグをそっとベンチの座面にのせてやると、立ち上がってゆっくりとその周りを歩き出した。
「あー、人のことなんていえない。私もね、ままならないことばかりです。クレーマーみたいなお客さんとか、ねちねち粘着質なお客さんとか、あとあれ、集団で居座るおばさんたちとか、あれはきつい! 本当は、笑顔でいるのがつらいときばかり。だから私は、自分に言い聞かせているんです。思い通りになることなんて、一週間にひとつもあればラッキーだって。そう思わなきゃ、とてもやってられないから――」
「僕は」
透は、流れる涙を止めることはせず、誰も乗っていないブランコをじっと見つめている。
「悲しかった。虚しかった。今でも苦しい。死んでしまいたい。でも、なによりも僕は、寂しかったんです。誰からも必要とされず、むしろ疎まれて、消えたほうがいいんだと言われてる気がして」
一度壁が破れてしまえば、とめどなく、想いが、言葉が、あふれてくる。
「ようやく退院が決まっても、家族は僕の引き取りを拒否しました。妹の結婚が近かったからです。僕は病棟から、何度も実家へ電話をしました。妹にただ一言、『おめでとう』と伝えたくて。でも、伝えることは叶いませんでした。病棟には公衆電話が一台だけで、テレホンカードもやがて底をついたんです」
(誰に断ってどこにかけてんの)
(いつまでチンタラしてんだよ)
(電話は1日3分まで。そう言ったよね?)
(相手は女? まさかね!)
「僕は、寂しかった、です」
美咲はふと足を止めて、透と一緒に無人のブランコを眺めた。
街灯のあかりに浮かぶ遊具たちは、誰からも忘れられた透の寂しさを代わりに物語っているようだ。
「黒い影だとか、声が聞こえるだとか。そういうの、おかしいでしょう」
「不思議だなとは、思います」
「そんな僕が、どうして自分のことを好きになんてなれるでしょうか」
美咲は、透のため息を引き受けるように、深く息を吸った。
「だったら、透さんの代わりに私が透さんを好きになるというのは、どうでしょうか」
「えっ」
「提案です。透さんがどうしても自分を好きになれないなら、それでいいんだと思います。だから、いつか透さんが自分を好きになれる日がくるように、そのお手伝いをさせてくれませんか」
「言っている意味が……」
「私は、めちゃくちゃなことを言っています」
「そんな」
「仲間や友達、大切な人たちが集まれば、そこが居場所になります。私にとってはそれがコトノハです。シンプルにただ、そこにもし透さんが加わってくれたら、とても嬉しいなっていう、これは私のわがままです」
「こんな、病気の僕をですか」
「透さんが病気そのものじゃないでしょう。そりゃあ、私にはそういう知識はないけれど、病気うんぬんじゃなくて、私は『沢村透』という人間を好きになりたいと願っています」
「それは、その、どのように捉えれば」
「ああもう、だから」
あまりのもどかしさに、美咲は天を仰いだ。オリオン座の周りでは、美咲が名前を知らない星々がちらちらと光を遊ばせている。
かすかに、繁華街方面から流れてきた「ジングルベル」が耳に入ってきた。
美咲は、透の顔を正面から直視した。
「私を、本当の笑顔にしてください、ってことです」
「わかりません」
「わかれ! この野郎!」
突然美咲が叫んだので、透は面食らってしまった。
「ひとりで背負おうとしないでください。勝手に去ろうとしないでください。私を置いて、もう誰も、どこかに消えたりしないでよ……!」
美咲はわんわん泣き出してしまった。
このとき、美咲はようやく心のままに泣くことができた。心の奥底に押しやってきた痛みを、手放すときがあるとしたら、それはきっと、「今」なのかもしれない。
由衣が亡くなってとにかく悲しかった。
命の灯がいつか消えてしまうことが虚しかった。
もう二度と会えないということが、とても寂しかった。
それでも日々は、一方通行で容赦なく続いていくから、自分は前を向いていないといけないと思ってきた。ずっとずっと笑顔でいなきゃって。
でも、悲しさも虚しさも寂しさも、ちゃんと自分の一部だったんだ。ずっと見ないふりをしてて、本当にごめんね。
美咲がその場にしゃがみこんで泣く、その肩に、透はぎこちなく手を伸ばした。そのぬくもりに、ゆっくりと美咲がうなずく。美咲の中で膿み続けてきた傷たちが、静かにほどかれはじめた瞬間だった。
ベンチの上のマグは、しっかりと眠ったふりを貫いていた。
「本当に行っちゃうの?」
年が明けて間もなくのこと、朋子が何度となく繰り返したその質問をヨーコにぶつけた。ヨーコは大きなスーツケースに「魔女の店」で使ったベール代わりの天蓋など道具を詰め込んでいる。
「寂しくなるねえ」
神谷が2つめのサイフォンを磨いている。コトノハには、いつもと少しだけ違う時間が流れていた。
「魔女は基本的に根無し草なの。とてもポジティブな意味でね。新しい風が吹いたら、行くべき場所へ旅に出るのが宿命なのよ」
「でも」
「またいずれ、ここには顔を出すわよ。せっかくスイーツの『非定期券』もあることだし」
「私、まだヨーコさんから何も教わってない」
「待ってるわ」
「えっ」
「これ」
そういってヨーコが差し出したのは、次の滞在先となる国の名前と、スマートフォンの番号だった。
「イタリア……?」
「それから、これ」
さらにヨーコは、マスキングテープで留められた白い封筒を朋子に渡した。
「ここでの売り上げ。予備校代の足しにして」
「ええっ」
朋子が「もらえません」と断る前に、ヨーコは朋子の唇に紅いネイルを施した人差し指をあてがった。
「明日から三学期でしょう。これまでのお礼に、朋子ちゃん、あなたに勇気の出るおまじないを教えてあげるわ」
「おまじない?」
「言の葉には、力が宿るの。つらくなったりくじけそうになったりしたら、こう唱えてごらん。『きっと、大丈夫』って」
第十九話 できるよ に続く