ふるーるの所長、三浦さんはこうなることすら全て見抜いていたのだろうか。
あの時、三浦さんは桃香にこう、問うていた。
「人を、さ。想う気持ちって大事だけど……」
「はい」
「人をありのままに受け止めるって、簡単じゃないよね」
「そうかもしれませんね」
桃香の適当な相槌を聞いて、三浦さんは告げた。
「覚悟は、ありますか」
「え?」
「全てを受け止める覚悟は、できていますか」
桃香は大いに戸惑った。
「どういう、意味でしょうか」
三浦さんはにっこり笑う。
「そのままの意味ですよ。そうだなぁ」
「……?」
困った桃香は、へにゃっと笑う。
「そう、その笑顔があれば、大丈夫かもねぇ」
彼は抵抗するが、彼女はそれでも、手を離そうとはしなかった。彼は、今話した自らの過去に苦しんでいる。それを乗り越えないと、幸せになってはならないと感じている。
『あの日』穿たれた心の傷が、彼を際限ない罪悪感へと引き戻してしまうのだ。
彼女は言う。
「確かに、あなたは弱かったかもしれないね」
「………」
虚ろな目で彼女を見やる、彼。彼女に向かい、まるで亡霊に話しかけるように、「何が、わかるんだ」とボソボソと繰り返す。
「君に、何がわかる」
「わからないよ」
彼女はキッパリと答えた。
「わからない。あなたの痛みは、理解なんてできない。無理だよ、そんなこと」
彼女の目は彼と対照的に凛としている。
「それでも、私は、今のあなたを好きになった。どんな過去があっても、今とこれからのあなたを、好きになった。私のこの気持ちは、あなたの過去を理由にして否定なんてできない」
「……」
彼女は少しだけ息が上がっていた。彼女もまた、緊張の中にいるのだ。首筋には汗もかいている。
彼は首を何度も横に振って、
「違う、嫌だ。そんなこと、信じたくないんだ」
そんなこと、とは彼女の自分に対する想いだろう。彼は恐れている。過去を踏みにじれば、またあの声に囚われてしまうと。
「あのね、これだけはわかってほしいの」
彼女は突然、こう言い放った。
「私、相当ワガママなんだ。だから、これから先、あなたを傷つけることも多いと思う」「…………?」
何を、言いだすのだろうか。
「あなたが、過去のことを許せなくても、いいじゃないの。いいんだ。だって、それで丸ごとのあなたなの。そんなあなたを、私は好きになったの!」
彼女は、半ば叫ぶように言い切った。
しかし、彼は首を横に振り続け、虚ろな目を中空に向け、
「やめてくれ。許しちゃいけないんだよ。俺は、あの日の俺を許しちゃいけないんだ」
そう言って手を震わせる。それを、懸命に包み込む彼女の手の体温が、次第に彼に伝わってゆく。 「怖いんだよね?」
彼女は言う。
「ずっと独りで抱えてきた、痛みを、傷を、手放してしまうのが」
彼はギクリとする。
その、通りなのだ。
彼の人生にはいつも、孤独と痛みが伴走した。傍らに中原中也の詩集。誰にも心を開かずに、静かに生きていこう。そう、決めたはずだった。 なのに、君がそこへやってきた。何も知らない、君が、土足で。
「だったら、これからはその痛みの少しでもいいから、私に分けて欲しい」
彼女の言葉は何かの祈りのようだ。
それは、まるで、いい意味で、今までの自分をひっくり返すような、強烈で、それでいてどこまでもしとやかな。
「あなたが許せないことは、私も許せない。いいじゃない、これからは二人で、痛みと手を繋ごう」
「……そんなこと、できるの?」
彼は問うた。彼女は涙を流したまま、
「できるかどうかじゃない。するかどうかなんだよ。何度も言うけど、私はワガママだから、すると決めたら、するの。もう決めたの。今、決めたの」
「……」
あの日の自分の弱さを、彼女もまた許さないという。一緒に、憎み続けてくれるという。そして、共に歩いてくれるとさえ、言ってくれた。
彼は確かに怖かった。許してしまえば、忘れることになってしまうから。
――でも、君となら。
「……っ」
彼は、彼女の手を握り返した。そして、ここが喫茶店の中であることも忘れて、泣き始めた。
「うっ、う…………」
それから、ここが喫茶店の中であることも忘れて、彼は嗚咽した。
ごめん、ごめんな。
俺はお前を許せそうにない。
一生、この傷とともに生きていくしかないんだ。
それでも、もう俺は独りじゃない。そのことを、きっとお前は許さないだろうな。
それでいい。それがいい、許さなくて、いい。どうか、許さないでくれ。
「大丈夫、きっと、大丈夫」
彼女は再びそう言った。
嗚咽する彼を、優しい眼差しで見守っている。
「うぁ……ううっ、おぉっ…………」
彼の頬を、幾重にも涙の筋が伝う。初めて、彼は泣くことができた。『あの日』以来、初めて泣くことができたのだ。
彼女は、手をぎゅっと握りしめて、へにゃっと笑った。
第二十話 クリスマス に続く