第十九話 手を繋ぐ

ふるーるの所長、三浦さんはこうなることすら全て見抜いていたのだろうか。

あの時、三浦さんは桃香にこう、問うていた。

「人を、さ。想う気持ちって大事だけど……」
「はい」
「人をありのままに受け止めるって、簡単じゃないよね」
「そうかもしれませんね」

桃香の適当な相槌を聞いて、三浦さんは告げた。

「覚悟は、ありますか」
「え?」
「全てを受け止める覚悟は、できていますか」

桃香は大いに戸惑った。

「どういう、意味でしょうか」

三浦さんはにっこり笑う。

「そのままの意味ですよ。そうだなぁ」
「……?」

困った桃香は、へにゃっと笑う。

「そう、その笑顔があれば、大丈夫かもねぇ」


彼は抵抗するが、彼女はそれでも、手を離そうとはしなかった。彼は、今話した自らの過去に苦しんでいる。それを乗り越えないと、幸せになってはならないと感じている。

『あの日』穿たれた心の傷が、彼を際限ない罪悪感へと引き戻してしまうのだ。

彼女は言う。

「確かに、あなたは弱かったかもしれないね」
「………」

虚ろな目で彼女を見やる、彼。彼女に向かい、まるで亡霊に話しかけるように、「何が、わかるんだ」とボソボソと繰り返す。

「君に、何がわかる」
「わからないよ」

彼女はキッパリと答えた。

「わからない。あなたの痛みは、理解なんてできない。無理だよ、そんなこと」

彼女の目は彼と対照的に凛としている。

「それでも、私は、今のあなたを好きになった。どんな過去があっても、今とこれからのあなたを、好きになった。私のこの気持ちは、あなたの過去を理由にして否定なんてできない」
「……」

彼女は少しだけ息が上がっていた。彼女もまた、緊張の中にいるのだ。首筋には汗もかいている。

彼は首を何度も横に振って、

「違う、嫌だ。そんなこと、信じたくないんだ」

そんなこと、とは彼女の自分に対する想いだろう。彼は恐れている。過去を踏みにじれば、またあの声に囚われてしまうと。

「あのね、これだけはわかってほしいの」

彼女は突然、こう言い放った。

「私、相当ワガママなんだ。だから、これから先、あなたを傷つけることも多いと思う」「…………?」

何を、言いだすのだろうか。

「あなたが、過去のことを許せなくても、いいじゃないの。いいんだ。だって、それで丸ごとのあなたなの。そんなあなたを、私は好きになったの!」

彼女は、半ば叫ぶように言い切った。

しかし、彼は首を横に振り続け、虚ろな目を中空に向け、

「やめてくれ。許しちゃいけないんだよ。俺は、あの日の俺を許しちゃいけないんだ」

そう言って手を震わせる。それを、懸命に包み込む彼女の手の体温が、次第に彼に伝わってゆく。 「怖いんだよね?」

彼女は言う。

「ずっと独りで抱えてきた、痛みを、傷を、手放してしまうのが」

彼はギクリとする。

その、通りなのだ。

彼の人生にはいつも、孤独と痛みが伴走した。傍らに中原中也の詩集。誰にも心を開かずに、静かに生きていこう。そう、決めたはずだった。  なのに、君がそこへやってきた。何も知らない、君が、土足で。

「だったら、これからはその痛みの少しでもいいから、私に分けて欲しい」

彼女の言葉は何かの祈りのようだ。

それは、まるで、いい意味で、今までの自分をひっくり返すような、強烈で、それでいてどこまでもしとやかな。

「あなたが許せないことは、私も許せない。いいじゃない、これからは二人で、痛みと手を繋ごう」
「……そんなこと、できるの?」

彼は問うた。彼女は涙を流したまま、

「できるかどうかじゃない。するかどうかなんだよ。何度も言うけど、私はワガママだから、すると決めたら、するの。もう決めたの。今、決めたの」
「……」

あの日の自分の弱さを、彼女もまた許さないという。一緒に、憎み続けてくれるという。そして、共に歩いてくれるとさえ、言ってくれた。

彼は確かに怖かった。許してしまえば、忘れることになってしまうから。

――でも、君となら。

「……っ」

彼は、彼女の手を握り返した。そして、ここが喫茶店の中であることも忘れて、泣き始めた。

「うっ、う…………」

それから、ここが喫茶店の中であることも忘れて、彼は嗚咽した。

 

ごめん、ごめんな。

俺はお前を許せそうにない。

一生、この傷とともに生きていくしかないんだ。

それでも、もう俺は独りじゃない。そのことを、きっとお前は許さないだろうな。

それでいい。それがいい、許さなくて、いい。どうか、許さないでくれ。

 

「大丈夫、きっと、大丈夫」

 

彼女は再びそう言った。

嗚咽する彼を、優しい眼差しで見守っている。

 

「うぁ……ううっ、おぉっ…………」

 

彼の頬を、幾重にも涙の筋が伝う。初めて、彼は泣くことができた。『あの日』以来、初めて泣くことができたのだ。

彼女は、手をぎゅっと握りしめて、へにゃっと笑った。

第二十話 クリスマス に続く