第十九話 できるよ

真冬の一大イベントといえば、バレンタインデーだろう。コトノハでも美咲の提案でチョコクッキーを置いたところ、若い女性を中心に売れ行きは好調だった。

クッキーを焼くのが美咲。そしてリボンをかけたり値札を張ったりするラッピング作業を、透が手伝っていた。

透はあのクリスマス以来、コトノハを時折手伝うことになっていて、作業に見合ったいくらかの謝礼を受け取っている。はじめはそれを固辞した透だったが、「やりがいをもって取り組んでほしい」という神谷の熱心な言葉に、透は、自分にも責任を持つ機会がめぐってきたのだと感じ、そのオファーを前向きに捉えることにした。障害年金と合わせて、もらった額は生活の足しにしている。

朋子は三学期から高校に復学し、毎日通学しているようだった。少し前に、「今度、またコトノハ行くね!」という文言と、制服姿ではにかんだ笑顔の朋子の画像付きLINEが、美咲のスマートフォンに送られてきていた。

「そういえば、昌弘がちょっと顔を出すらしい」

コーヒーカップを磨いていた神谷が、思い出したようにいった。

「そうなんですか? バイト、どうにかなったのかな」
「まあ、大学はもう4月まで春休みだしね。少しは暇ができたんじゃないのかな」
「そっか、なんだか久々だなあ」
「どなたですか?」

透が作業の手を止めずに問うと、ピンク色のリボンを彼に手渡しながら美咲が、「幼なじみ、かな」と答えた。

「俺の息子。今、都心のほうの大学に通ってるんだ」
「そうなんですね。ご専攻は」
「『ご専攻』なんて大層なものじゃないさ。なんでも弁護士になるとかで、法学部に行ってる」
「それはすごいですね」
「本当になれたならね」

神谷は苦笑した。


マグがJRの駅近くのペデストリアンデッキを歩くと、母親に手を引かれていた幼い子どもが「ねこちゃん!」と指をさしてきたり、ふわふわの背中を撫でてみようと女子中学生たちが接近を試みたりするのだが、それらをすべてさらりとかわし、マグは改札付近でじっとその時を待っていた。

街はすっかりバレンタインモードで、人気のアイドルグループが歌うラブソングが駅前のアドモニターから流されている。駅前も商店街も装飾され、これでもかとハートマークで溢れかえっている。

バルーンでできたハートを握ってはっしゃいでいた女の子が、マグの目の前で転んでしまった。

膝を打った痛みではなく、バルーンが割れたショックで泣き出す子ども。母親が「大丈夫だよ、また買ってあげるからね」と子どもを抱き上げた。そしてマグに気づくと、「ほら、にゃんこがいるよ」と子どもに伝えた。すると、泣き顔だったその子がいっきに笑顔になって、

「かわいい!」

とマグに近寄った。マグは両目を閉じて、その女の子が自分を撫でてくる手を受け入れた。その子は宝物を愛でるように丁寧にマグに触れた。

「おとなしいのね」

母親が感心した様子でいうと、その子はマグに「一緒に帰ろう」といった。しかし、母親は「この子は飼い猫よ。家族がいるの。ね、行きましょ」と子どもの手をひいて、そのまま去っていった。女の子は姿が見えなくなるまでずっと、マグに「ばいばーい!」と手を振っていた。

「相変わらずモテるんだな、お前」

懐かしい声にマグが目を開くと、そこにはリュックサックを背負った昌弘の姿があった。


「ただいまー」

昌弘がドアベルをからころと鳴らして、まるで部活から帰ってきた高校生のような雰囲気で閉店後のコトノハに入ってきたものだから、その場で留守番を頼まれていた透は、ぎこちなく「すみません、今日はもう閉店で」といった。

「あ、いや、そういうんじゃないです。ここ、実家なんで」
「あ、もしかして昌弘さんですか?」
「そうだけど……どちらさま?」
「あの、僕はここをお手伝いさせてもらっている者です」
「ふーん」

昌弘はカウンターにどかっとリュックサックを置くと、透の顔をまじまじと見た。

「美咲から聞いてるよ。サワムラさん、だったよね?」
「はじめまして。お世話になっております」
「そういうの、やめようよ。そんなに年齢、かわらないだろ?」
「いえ、昌弘さんは現役の大学生ですよね」
「うん、2年生だけど」
「僕は、あと2年で三十路です」
「えっ、けっこう年上っ?」
「はい」

マグがいつものソファーで眠そうにあくびをする。

「見えない。てっきり同年代かと」
「ありがとうございます」
「だから、ため口でいいって」
「そう、かな」
「そうそう。ってか、俺のほうが後輩なわけだし、人生の」

そういって、昌弘はリュックサックの中からビーフジャーキーを取り出した。それから慣れた仕草で店内の冷蔵庫を物色し、ジンジャーエールを二本取り出した。

「相変わらず酒っ気ないんだよなあ。まあとりあえず、出会いを祝して。乾杯」
「乾杯」

グラスがカツンと乾いた音を立ててぶつかる。それからしばらく黙っていた二人だったが、ふとマグが昌弘のひざの上で大きなあくびをしたので、

「すっかりリラックスしてんのな」

と昌弘はつぶやいた。

「マグにとって、昌弘さんは唯一無二の恩人だから」
「それはお互いさまってやつさ。マグがいなけりゃ、今の俺はいない」
「さながら恩ねこ、ってところですか」
「ため口でいいって」
「ごめん」
「別に謝ることじゃないさ」

昌弘はピスタチオを一粒つまみあげた。

「俺は、弁護士になる! なんて言ってんだけどさ、その実、理数系がからきしダメだから消去法で文系に行っちゃったクチなんだ。弁護士になりたいのは嘘じゃないんだけど」
「別にそれは、悪いことじゃないよ」
「まあな。確かに悪いことではない。沢村さんの専攻は、なんだったの?」

その質問に、透はしばし黙した。あれ、まずい質問をしてしまったかなと昌弘が口を開きかけたとき、マグが昌弘のひざの上で寝返りを打った。時を同じくして、透がゆっくりと話し始める。

「……ちょっと、マニアックかもしれないけど」
「そうなの?」
「惑星間空間シンチレーションにおける電波強度の変動について」
「は?」
「つまり、クェーサーやパルサーなどの視直径が極めて小さな電波天体からの電波が太陽風プラズマにより散乱されて電波強度が変動する現象があるんだ。この現象が惑星間空間シンチレーションと呼ばれていて夜空に輝く星々が大気の密度変動により煌めく現象に似ていて……」
「おいおい」

たまらずに昌弘は透の言葉を遮った。

「まるでチンプンカンプンだよ。宇宙の? シークワーサーが?」
「えっと……」
「まあいいや。難しいことをやってたんだな」
「まあ、そうかもしれないね」

昌弘は「うんうん」と頷いて、それから自分の大学の専攻である法学について、半ば愚痴るように話しはじめた。

「法律ってのは、本当にわかりづらい書き方すんだよな。わざとかよってくらい。一文がやたら長くてさ、だから果たして目の前の条文が否定なのか肯定なのかわからなくて、そんなところで時間を食うんだ。アホらしいと思わないか?」

そのせいで「行政法」の単位を逃したのだという。そんな昌弘に、透は「そっか」と相槌を打ってから、こんなことをいった。

「……『否定形』の数を数えたらどうかな」
「え?」
「なになにじゃ『ない』とか、これこれ『ではなく』とか、否定する言葉を数えるんだ。それで、それが奇数なら、その条文は否定、と読み解くことが可能になると思う」

昌弘は、手に持っていたおつまみのピスタチオの殻を床にぽろっと落とした。

「なんていうか……すごいな、やっぱり」
「『やっぱり』?」
「やっぱりはやっぱりだよ。美咲が好きになるだけのことはある」

突然の昌弘の言葉に、透の心臓はスタッカートのように跳ねた。

「なに赤くなってんだよ。ふたり、付き合ってんだろ」
「え、あ、そういうわけじゃ」
「おいおい、勘弁な。俺は、わりとひどく傷心なんだぜ」
「えっ」

昌弘は、ピスタチオの中身をぽいっと口に放り込んだ。

「はー、まあ仕方ないか。仕方ないだろ。そういうもんだよ、きっと、こういうことって」
「ごめん」
「あ、や、ま、る、こ、と、じゃ、ないっ」

素面にもかかわらず、昌弘は大きな声で笑いながら透の背中を叩いた。傷心というのは、どうやら相当に深い程度のようだ。

「いくらこっちがLINEしたって、いつも美咲の話題は沢村さん、あんたのことだ。美咲をそこまで夢中にさせるのはどんな野郎かとずっと思ってたよ。ひと目見てびっくりした。どんなイケメンなのかと思えば、虫一匹も殺さなそうな優男なんだもん。でも、もっと驚いたのはあんたの頭の回転の速さ。だけど、なにより俺が驚いたのはさ」
「うん……」
「素直に白旗をあげてもいいって思えるくらい、あんたがいいやつだってことが、俺にもすぐにわかったことだよ。あんたとなら、美咲はきっと本当の笑顔になれる」

その言葉を聞いて、俯いていた透はハッと顔を挙げた。

「……昌弘さんも、気づいてたんだ」
「そりゃあね。ずっとそばで、あんなに無理して笑顔でいられたから」
「そうか……」

昌弘は、まっすぐに透に向き合ってこういった。

「だからさ、約束してくれよ」
「約束?」
「そう。美咲を、必ず本当の笑顔にするって」
「僕には、そんなこと……」
「できるよ」

昌弘は、マグの整った毛並みを撫でながら続けた。

「できる、って思わなきゃ、できるものもできなくなるだろ」

初対面なはずなのに、心地よい距離感をもたらす目の前の青年に、透もまた好感を持った。昌弘には嘘も嫌味もない。彼はただ、愚直なほどにストレートに、透に宣言をしに来たのだ。すなわち、自らの想いを引くことと、透に約束をさせることを。その覚悟に、応えない理由は透になかった。だから、透もまた昌弘にまっすぐに向き合って、はっきりとこう告げた。

「わかった。約束しよう」

マグが両耳をぴくりとさせる。少ししてからドアベルが軽やかに鳴って、神谷と美咲が両手にエコバッグを持って帰ってきた。

「お、昌弘」

神谷が嬉しそうに声をかけると、昌弘は片手をあげた。

「おう。ただいま」
「久しぶりじゃん! よかった、間に合って」

美咲たちが買ってきたのは、焼き肉の具材だった。ホットプレートを準備しながら美咲が説明をする。

「知ってた? バレンタインデー前後って、なぜかお肉が安くなるの。その代わりチョコレート関係が高騰するんだよね。怖いね~、大人の事情って」
「なんでそんなこと知ってんだよ、美咲は」
「世の中の動きを知ることも、受検勉強のうちだからね」
「ほほう」

豚バラに牛カルビ、山盛りもやしににんじんやかぼちゃ、玉ねぎなどの数種類の野菜の輪切りが大皿に並ぶ。

「お前が帰ってくると思ってな」

神谷がそういって缶チューハイを取り出した。

「さすが父さん、わかってんじゃん」

ホットプレートが熱せられて、最初の豚バラが敷かれると、すぐに香ばしい香りが漂ってきた。

「バレンタインデーイブに焼き肉。最高かよ」

昌弘が茶化していうと、美咲は炊き立てのご飯にタレをからめながら「最高だよ」と笑顔でいった。

「幸せだな、私」
「えっ」

いきなりそんなことを言いだす美咲に、その場にいた男性陣はいっせいに顔を見合わせた。

「こんなおいしい豚バラが、4割引きで買えたなんて」
「お前なあ」
「なに?」
「……なんでもない」
「変なの、昌弘」
「うるせ」

マグはずっと昌弘のひざの上にいて、そのまますやすやと眠ってしまった。


翌日の朝早く、急いでリュックに荷物を詰める昌弘に、神谷は「なんだ、もう少しゆっくりしていけばいいのに」と声をかけた。だが、昌弘はどこか清々しい表情で、「午後からバイトだし。母さんにもあいさつできたし。……みんなの顔も、見られたし」と答えた。

「『みんな』ねえ」
「ああ『みんな』にだ、よろしくな」
「わかった」
「父さん。俺、必ず弁護士になるよ。そんで港区のタワーマンションで金髪美女とブランデーグラスを傾けてみせる。必ずだ」
「不純な動機もそこまで言い切ると、むしろ潔いな」

神谷親子は、声を出して笑いあった。そんな二人を見守るように、フォトフレームの中で由衣が微笑んでいた。

第二十話 バレンタインデー に続く