第二十話 クリスマス

決して許さないで、そして忘れない。思い続けることが、彼にとっての償いなのかもしれない。

苛烈な過去を語ってなお、桃香は真一のことを受け入れた。そのことは、許しを意味するわけではない。それでいいのだ。それが、いいのだ。

今度は二人で選んだ選択肢なのだから。

あの日の弱さが許せないというのなら、許せなくて良い。苦しんでしまうのなら、苦しめばいい。生きていくとは痛みと背中合わせだ。人は多くを失いながら、生きている。生きているだけ、多くのものを喪っている。そのことはしかし、人に罪を与えるわけではない。

あの日以来、彼は自分の弱さに対する絶望を罪のように感じていた。一生、背負っていかなければならないと。

しかし、そのことを独りで行う必要はないと、桃香が教えてくれた。

これからは二人で、背負っていこう。手を繋ごう。一緒に、歩こう。

それを責める人がいたとして、それでも良い。

中原中也はかつて初期詩篇の中の「黄昏」という詩の中で、「失われたものはかえってこない。」と詠っている。まったくその通りだと真一は感じている。しかし、桃香はそこへ、「だから、今とこれからを大切にすることが大事なんだね」という解釈を加えた。

まったくその通りだと、――真一は、痛いほど感じている。


別の日、ふるーるの作業室で、画用紙に向かってクロッキーを滑らせている真一の姿があった。描かれているのは、女性の横顔。

「お、コレ、桃香ちゃん?」

通りすがりに覗き込んだ兵藤さんが問うた。

「はい」

兵藤さんは真一の肩をつついた。

「いや〜若いっていいわねぇ」

照れ笑いする真一の顔に、かつての憂いの色は薄い。

同様に、描かれた女性の横顔の口角も、自然と上を向いていた。

彼には、彼女がこう見えるのだ。


「えぇ!? また撮り直しー?」

絵美子はあきれて証明写真の機械の中の桃香に言った。

「そんなんじゃダメ。証明写真だよ? もっと美しく写らなきゃ」
「真を写すと書いて写真だろ。盛るなよ、プリクラじゃあるまいし」
「あと一回だけ!」
「はー、相変わらずだね。それに証明写真なんて一回結構高いよ?」
「もうすぐシャッターだから、ちょっと静かにして。集中する」
「はいはい……」

桃香は、障害者手帳を取る決意をした。主治医に伝えたところ、そのための診断書を書くことを快諾してくれた。桃香にもまた、変化が訪れたのだ。ふるーるのみんなや、真一の姿に触発され、自分が障害者であるという事実を堂々と受け入れようと、まずは形から入ることにしたのだ。手帳の申請に必要な証明写真を、駅前まで撮りに来ている。

仕事帰りの絵美子を捕まえてのことだった。

「あ! 目ぇつぶっちゃった!」

桃香が悲鳴をあげる。

「まったく……」

絵美子は真顔で写る桃香の写真に向かって微笑んだ。


12月24日。世の中はクリスマスソングで溢れ、だれもがどこかソワソワする日。桃香も真一も別段クリスチャンではなかったが、クリスマスに寄せる特別な感情は存在した。

桃香は思案していた、何をあげたら彼は喜ぶだろうか。

お金はない。だから、手紙を書くことにした。綺麗な便せんを買って、そこへ思いをしたためた。

 

真一へ

生まれて初めて、大切な人と一緒にクリスマスを迎えます。今日という日を、あなたと過ごせることを嬉しく、また誇りに思います。

思えば、私は今まで人を真剣に愛したことがありませんでした。恋の痛手は数多けれど、誰かを真剣に見つめ、想い、愛するという経験は、生まれて初めてです。

あなたがもし、病を得ていなかったら、私がもし、病を得ていなかったら、私たちは出会うことがありませんでした。

だから、今までのあなたに、『お疲れ様』と『ありがとう』を、そしてこれからのあなたに『どうぞよろしくね』を伝えたいです。

一番大切な言葉は最後までとっておきます。

私は、ワガママだし、泣き虫だし、だからこれからもっとあなたに迷惑をかけると思います。 でも、どうかそのままの私を、どーんと受け止めるのだ!(笑)

私をパートナーに選んでくれたこと、感謝してもしきれません。大好きだという言葉だけではきっと、伝わらないから、『幸せなら態度で示そう』と思います。

桃香より


今日は、新宿まで出かけることにした。真一に江古田まで来てもらい、それから手を添えてもらい電車に乗る。新宿までには乗り換えが必要だったが、触れ合う手の温度が互いに心地良かった。

「ここなら、タバコも吸えるよ」

桃香がインターネットで調べていたのは、新宿三丁目のカフェだった。混むだろうと予想し、予約までしてくれていた。スコップをモチーフにした可愛らしい装飾の店で、今はクリスマス仕様になっている。

よくくつろげる、ソファ席を用意してもらった。桃香がパスタを、真一はガパオライスを注文。食事は最近のふるーるの様子や絵美子の結婚話などで盛り上がった。

食後にコーヒーと(ちなみに、真一はブラック派だ)ハーブティーを頼み、しばらく楽しくおしゃべりしていたが、ふと真一が真顔になって、

「渡したいものがあるんだ」

そう言うものだから、桃香の胸はときめいた。プレゼント交換だ。

桃香は颯爽とカバンから手紙を取り出し、真一に渡した。

先手を取られて驚いたのか、真一は「えっ」と声を出した。

「読んで、くださいな」

照れ隠しに茶化したように桃香は言う。

「あ、うん」

律儀に頷く真一。丁寧に封を開け、桃香の想いをのせた文章を読んだ。

しばらく、真一は沈黙していた。桃香の胸中はドキドキもので、どんなリアクションが返ってくるのか少し不安でもあった。

ややあって、真一は、ふっと笑った。初めて出会った日のように。

「……ありがとう」

桃香は必死に首を縦に振って、

「こちらこそ、読んでくれてありがとう。受け取ってくれてありがとう……受け止めてくれて、ありがとう」

真一は桃香の髪をくしゃっと撫ぜた。

「俺からも、これ」

と、A4サイズで包まれた何かを渡された。紙、だろうか。

「開けてみて」

桃香は緊張の面持ちでクリスマスプリントの包装紙を開ける。

そこには、彼女の横顔に花が添えられた、一枚の絵があった。

「桃香の好きな花、知らなくて」

真一は照れくさそうに、「だから、桃の花を描いたんだ」ぽりぽりと頬をかきながら言う。絵の右下には、「Y.S」とサインも入っている。

てっきり喜んでくれると思っていた真一だが、桃香はぷくーっと頬を膨らませている。

「えっ!?」

さすがに驚く、真一。

な、なにかまずいことしただろうか……。

すると、桃香は横顔の輪郭を指差した。

「私、こんなに太ってる!?」

「え? 俺の見たままの桃香を描いたつもり……」

「な〜んてね〜」

意地悪く笑ってみせる桃香。

「嬉しい、めっちゃ嬉しい! 桃はもちろん、好きな花だよ。それに、真一が私を想って私を描いてくれたことが、本当に嬉しい」

喜ぶ桃香のへにゃっとした笑顔に、真一はノックアウトされてしまう。

赤面を隠せず、おずおずとした手つきで煙草を取り出し、昂った気持ちを抑えようと深呼吸した。

ふー、と煙を吐く。吐き出されるのは煙だけではないのだろう。かつてのような憂いではなく、それはきっと、ドキドキの類だ。

煙草を吸えば気持ちは少し治まるが、目の前で桃香がにっこりしている事実に変わりはない。

「あの、さ」

真一は、煙草を灰皿で潰しながら、カタコトのような口調で、しかし決意したように桃香に言った。

「良かったら、このあと、うちに来ない?」

第二十一話 抽象画 に続く