第二十話 バレンタインデー

バレンタインデー当日、美咲と透とで作ったチョコクッキーが完売して、プレーンも残り一袋となった夕方ごろ、コトノハに郵便配達の人がやってきて、小包を届けてくれた。

「イタリアからです」

差出人欄には、「Yoko Kuromine」とサインがされている。神谷が「魔女からだ」と嬉しそうに封を開けると、そこにはパリのショコラティエが作ったと思われるロリポップ型のショコラが小包装されて何本も並んでいた。

「すごーい、かわいい!」
「さすがヨーコさんだね」

一つひとつ異なる柄の包装紙に、美咲はすっかり感激している。神谷は、小包の中にまだなにかが入っているのに気づいた。

「手紙だ」

そこには、トレビの泉をバックにバッチリポーズを決めたヨーコの写真と、ハートマークがちりばめられた便箋が添えられていた。ブルーブラックのインクで流麗な文字が記されている。

コトノハのみんなへ

こちらではヴェネチアングラスの工房に間借り成功。相変わらずのんびりやっています。

いつか遊びにいらっしゃい。最高のイタリアンをご馳走しますよ。

こちらにも、コトノハそっくりな仲間がいるのです。私の店を手伝ってくれる若い女の子は、そばかすの多いところと素直なところが朋子ちゃんに、工房の一番若手の職人はひたむきでよく笑うところが美咲ちゃんにそっくりです。寡黙で真面目な青年の職人にはトオルの面影を見ます。おしゃべりで元気なレディはまるで香月ちゃん。工房を仕切る気のいい恰幅のいいマエストロは、なんだかマスターみたい。みんな、とてもいい人たちだから、コトノハのみんなにもぜひ紹介したいです。マーレという名の雑種の猫もいます。

ヴェネチアは水の都。工房から毎日、潮の満ち引きする街を見下ろしています。なかなか優雅でしょう?

私は改めて思うのです。うつろわないものなど皆無だし、どんなうつろいも愛しいと。

迷うこと、傷つくこと、経験から意味を奪われること、そのすべては、それでもうつろうのです。誰も時間を止められないように、人間はただうつろいという流れに心身を委ねるしかない。むしろ何もかもが有限だからこそ、そのあらん限りの輝きを放つ。そこに、尊さと愛は生まれずる。

そんなことを、本気で感じています。

みんな、どうかずっとお元気で。じゃなきゃ承知しないわよ。

愛をこめて Yoko


閉店後の作業を終えた美咲は、「お疲れ様でした」とあいさつして店を出て、軽やかに自転車に乗って夜の商店街を駆け抜けた。通り過ぎた夜の公園のベンチはカップルたちが支配していて、真冬のはずなのにあたたかい雰囲気に満ちていた。

美咲もまた頬をほんのり染めて、目的地へとペダルを力強く漕いだ。


地域活動支援センターでは今日、「バレンタインデー企画」というプログラムで、チョコレートケーキをみんなで作って食べるという内容だった。ホールケーキを通所メンバーとスタッフの10名で分け合ったのだが、10等分というのが難しいらしく、切り分ける係は透にまわってきた。沢村くんは数学が得意なんだから、これくらい朝飯前でしょう? と他の通所者さんから冗談交じりにいわれたのだが、透は真顔で「やってみます」と答えた。

「まずは2等分にします。次に、その半円の5分の1の目安の位置に、ナイフで少し、印をつけます。その印のところから半分のところを切るんです。これで5分の2と5分の3に分かれます。面積の大きい方を3等分にします。もうひとつは半分に切るだけ。これで10等分になるはずです」

その手さばきを見たみんなから、透に惜しみない喝采が送られた。


今夜は風がそんなに強くないはずなのに、アパートの窓はかたかたと小刻みに揺れている。築年数を気にしたことはなかったが、それでも壁のしみや、引き戸の歪みは気にせざるをえない。しかしながら引っ越すことは考えられなかった。

センターへの通所とコトノハの手伝い、たまの通院とで日々は忙しく過ぎている。確かに、むかし思い描いた未来とは違うかもしれない。研究者になるという夢は、たぶん叶いそうにない。それでも、今こうして居場所ができて、質素でも家があって、生活があって……美咲がいてくれる。そんな毎日が、決して不幸などではないと、透はこころで理解していた。

透は、畳の上に横になって、スマートフォンの中に保存された空の写真を眺めていた。商店街の近くの公園は、本当にきれいな空が見られる。たまに時間の空いた時に、マグと初めて出会ったあのベンチに腰掛け、透は空を撮影していた。日ごと、季節ごとに表情を変える空をレンズに収めることは、ちょっとした楽しみでもあった。――自分は、季節に置き去りになどされていないと思えるから。

透が、いつか撮ったうろこ雲の画像を眺めていると、スマートフォンにピコンと通知が入った。

みさき:もうすぐ着くよ!

「えっ」

透の心拍数が一気に上昇する。どぎまぎしている間に、アパートのすぐ外で自転車のブレーキ音が聞こえた。

ぱたぱたと物音がして、そこには「にゃー」とか「みゃお」とか、よく聞き慣れた声も混じっている。

(まさか)

透が気持ちを整えるより早く、アパートのドアがコンコンと叩かれた。おずおずと透がドアを開けると、そこには紺色のマフラーを巻いたダッフルコート姿の美咲が、白い息を弾ませていた。家の目の前に停められた自転車のかごには、マグが鎮座していた。

「いきなりごめんね」

透が電子レンジで温めた麦茶の入ったマグカップを差し出すと、美咲は「ありがとう」とふうふうそれを冷まして一口飲んだ。

「ううん、寒かったでしょう」
「うん。今日は特に冷えるね」
「そっか……」
「……うん」

美咲は、背負ってきたリュックサックから手のひらに収まる程度の大きさの、ピンクのリボンでデコレーションされた箱を取り出した。

「これ、渡したかったんだ」

よく考えなくたって、それがバレンタインデーの贈り物であることは透にもすぐにわかった。

「これは、特製。生チョコだから、早めに食べてね」
「これは、その。どういう……」

美咲はわざとらしく頬を膨らませた。

「今日は、好きな人にチョコを贈る日だよ」

透はその言葉に、顔を真っ赤にしてしばし黙した。歓喜と緊張のあまり、鼓動と呼吸とが乱れてしまう。

木枯らしが吹いて、窓から入ってきたわずかなすきま風が、美咲のくしゃみを誘った。そのかわいらしい声に、透は思わずハッとした。

「大丈夫?」
「うん」
「よかった……」

透は、呼吸を懸命に整えて、肩甲骨から緊張を解き放つような深呼吸を数回した。美咲は自分の手を、そんな透の背中を優しくさするために添えた。透は徐々に落ち着きを取り戻しつつ、どうにか自分の言葉を探し当てた。

「……こういうの、あんまり、経験がないから」
「嫌だった?」
「ううん、嬉しいんだ。嬉しすぎて、どうしたらいいかわからない」
「そっか」
「……ごめんね、こんな僕で」

美咲は、透の背中に触れていた手を拳にしてこつんと彼の肩を叩いた。

「ばかだなぁ」

マグはしっかり、見ていないふりを貫いてくれている。

「そんな透さんだから、私は好きになったんだよ」

ぎこちない動作で、透が肩に触れる美咲の手を握る。不器用だけれど優しい時間が、二人と一匹を柔らかく包み込んでいった。

最終話 コトノハ に続く