真一の自宅は、中野駅から15分ほど歩いたところにあった。木造モルタルのアパートの、102号室。駅までの道すがら、二人はコンビニに寄ってお菓子や飲み物を買った。それから、安全に結ばれるための道具も。これは桃香がこっそり買った。
「入りなよ」
玄関前で、鍵を開けて真一が声をかけた。
「寒いでしょ」
「うん」
アパートに入ると、すぐ台所があり、小さなテーブルが置かれていた。椅子は一脚。一人暮らしならではだろう。雑然とした部屋の中は、それでも彼が今日のことを考えてか、そこそこ片づけられていた。
「狭くてごめんね」
見ると、本棚にはたくさんの文庫本が入っており、そのほとんどが詩集だった。本棚の上には絵が飾られている。自分で描いたものだろうか。
真一はやかんに水を入れ火にかけると、桃香に椅子に座るように促した。真一はシンクに寄りかかって、煙草を口にした。
やかんのお湯が沸騰するまで、二人とも黙っていて、時計の秒針の音だけが部屋に響いていた。
真一はテレビのリモコンを手にし、少し躊躇してから電源を入れた。途端に部屋には、バラエティー番組の笑い声が響く。桃香はしばらくテレビを観て「あはは」などと笑っていたが、その目はどこか寂しそうだった。
「あの、さ」
真一はその様子を見て、お茶を淹れてから桃香に声をかけた。
「緑茶でよかったかな」
「うん」
お茶を一口飲んで、桃香はふっとため息をついた。頬杖をついてテレビから目を離そうとしない。
真一もまた、テレビに視線を追いやった。
「あ、この人知ってる? PPAP」
桃香が言う先には、最近爆発的に有名になったユーチューバーの姿。
「ううん、知らない。面白いの?」
「ハマればね。見せてあげるよ、パソコン貸してくれる?」
桃香は真一の作業スペース代わりの寝室に置いてあるパソコンを指差した。
桃香はためらいなくテレビの電源を切ると、寝室へと向かった。そこは真一が絵を描いたり読書するための部屋で、簡易ベッドが設えられている。
デスクトップ型のパソコンの電源を入れて、表示された壁紙を見て、桃香は感嘆の声をあげた。
「きれい……」
七色で構成された、不可思議で柔らかいコントラスト。虹が空間に滲んでいる。
「これも、自分で?」
「うん」
少し気恥ずかしそうに、真一は頷く。
「桃香に出逢ってから、描いたんだ」
「そっか……」
桃香はPPAPのことなどすっかり忘れて、壁紙に見入っていた。やがて、
「ね、もっと他に真一の作品、見たい」
真一は一瞬だけ躊躇した。しかし、今更だ。この子に隠し事は、できない。
押入れの奥から、真一はスケッチブックや何枚もの画用紙を取り出した。昔の作品を人にきちんと見せるのは、なんだか照れくさい。
「へぇ……」
彼の作品には風景画が多かったが、ある時を境に急に抽象画が増えた。桃香のリアクションを目にした真一はフォローするように、
「この頃、発病したんだ」
そう言った。
幾重もの線がうねって、人間の手のようなものが下から生えている。天から降り注ぐ、黒い雫。何を描いたのだろう? 問うても、「わからない」とのことだ。
聞けば、『声』の命ずるままに、彼は必死に手を動かしたという。そうでもしないと、本当に壊れてしまいそうだったから。
彼はかつて、強制的に精神科病院に入院させられた。
どうして自分がこんな場所にいるのか、まるで理解できなかった。部屋というよりは収容所のようなそこには、無機質なベッドと床に掘られただけのような便器。着用を許されたのは、下着とスウェットだけ。
無理やり打たれた注射の液剤の影響が切れていたのか、意識が明瞭になってくるにつれ、周囲の状況を把握できるようになってきた。
一生、ここから出られないかもしれない。
しかし、それも仕方のないことなのかもしれない。
俺は罪人だ。
陋劣な人間だ。
人並みの幸せなんて、願ってはいけないんだ。
……やがて鈍ってゆく、外部への憧れ。
保護室を出てデイルーム(患者たちが日中を過ごす場所)で過ごすようになっても、『声』は聞こえた。チラシを破いてコラージュをしていたのを見たある看護師が、主治医にかけあって、作業療法に真一を参加させるようにしてくれたと伝え聞いたのは、後のことである。
作業療法士は驚いた。革細工をさせれば売り物になるレベルのものを作るし、ぬり絵をさせれば非常に美しく仕上げるし、リリアンを編ませればあっという間にできあがる。
薬の副作用で多少手の震えがあったにも関わらず、彼は芸術作品と呼ぶにふさわしいものを作り続けた。
それらは、すぐに主治医の目に留まった。
「君、創作は好きかい」
壮年の主治医はそう言った。しかし真一はうつろな目を主治医に向け、
「いいえ……。しかし、描かなければならないのです」
「それは、どうして?」
「『彼』の命令だから」
「……そう」
『そんな時代もあったねと……』という有名な歌詞があるが、本当にその通りで、振り返れば懐かしく、またちょっとした痛みも伴う、入院時代はそんな思い出だ。
描かれる絵は、常に彼の人生を写してきた。
「私、真一の絵はどれも好きだけど、やっぱり私の横顔が好きかな。でも、これも好き」
桃香が示したのは、赤色と黒色だけで描かれた、おどろおどろしい抽象画。これがなぜかしら桃香の心を惹いた。彼が退院してすぐ、実家にこもっていた時期に必死に描いた一枚だった。
「ありがとう」
真一は嬉しかった。自分の大切な一部を肯定された気がしたからだ。
一通り作品を見た桃香はふと、こんなことを言った。
「ね、もう一度、私を描いて」
「え?」
桃香はまっすぐに真一の目を見て、言い切った。
「今度は私を、ちゃんと見て描いて」
そして、首元につけていたペンダントを外し始めた。
第二十二話 優しい時間 に続く