第二十二話 優しい時間

想いが通じ合うということの、凄まじい自己肯定感は、同時に彼を不安にもさせた。自分はこのまま幸せになってもいいのだろうか? しかし、彼女は教えてくれた。共に歩もうと。共に、影を背負っていこうと。

解き放たれる時があるとしたら、それはもしかしたら、「今」なのかもしれない。

エアコン一台と簡易ヒーターしかない寒い部屋の中で、一糸まとわぬ姿の彼女を見て、真一は興奮ではなく、重たい緊張感を覚えた。

そしておぼつかない手つきでキャンバスを準備すると、クロッキーで彼女を描き始めた。

桃香は少しだけ赤面し、しかし女神のように微笑みながら、彼の前に立っている。

彼女の丸みを帯びた胸もとを描く時、真一の手は少し震えた。

それから、どれくらい時間が経っただろう。彼女の姿がキャンバスに現れ、柔らかくこちらを見ている。

桃香が、小さくくしゃみをした。

真一はハッとして、ベッドに敷かれていた毛布を持ってきて桃香にかけた。

「ごめんね。寒かったよね」
「ううん、大丈夫。絵、見てもいい?」
「あ、うん」

桃香は毛布を体にくるませて、キャンバスを覗き込んだ。そこには、偽りのない桃香の姿。クロッキーだけでつけた陰影が見事だ。

「ありがとう……」

桃香は微笑み、その場で目を閉じた。心なしか、唇がこちらを向いているような気がする。

真一は戸惑った。これは、きっと、そういう場面なんだろうけど。

真一がおずおずしていると、桃香が薄目を開け、真一の腕をがっしり掴んだ。

「えっ」

真一が問うより早く、桃香は唇を真一のそれに重ねた。

「……!」

温かい、感覚。柔らかくてふるふるとしている。

「ん……」

桃香が声をこぼす。彼女の蛮勇に近い勇気は、真一の心をひどく打った。

だから、真一は毛布ごと彼女を抱き寄せた。怖かった。ただただ、愛しい渦に巻き込まれていくような感覚に、真一は恐怖した。だから、夢中で抱き寄せた。桃香もまた、彼のそんな感情に気づいていたのか、彼の腕に添えた手を、そっとぎゅっとした。

その途端だった。彼の頭の中で、声がした。

「「「お前は、俺を許すつもりか」」」

「う…………」

桃香は真一の異変を察した。だからこそ、繋いだ手は、離さなかった。

もう、逃げない。目を逸らさない。

大丈夫。だって、『一緒』だから。

「桃香……っ」

真一は現実にしがみつこうと、必死に桃香を抱き寄せた。呼吸が早くなってゆく。

「真一。大丈夫、きっと、大丈夫よ。私の目を見て」
「あぁ…………」
「目を見て!」

桃香はぐいっと真一の目を覗き込んだ。虚ろになりかかった瞳に降り注ぐ、桃香の涙。

そのまま二人は、もつれるように倒れこんだ。

「……」

それは、優しい時間だった。静かに流れてゆく、尊い時間だった。

キャンバスに描かれた桃香の肖像だけが、すべてを目撃していたのだろう。

誰かを愛するということは、他に言い換えのきかない行為なのだと彼は感じている。そして、世の中になぜラブソングが溢れているのかも、少し理解できた気がした。

人間とは、自分がいつか死ぬことを知っている生き物だ。そして、愛するという行為を欲し、与え、時に傷つき、時に裏切られ、やがてゆっくりと満たされてゆく。

人がこの世に生を受けるのは、誰かを愛し、愛されるためなのだろうか。傷を穿たれるのは、それを埋めるための愛を欲するがゆえなのだろうか。

 

彼の中で問いは続いているが、一つだけ変わったことがある。

それは、彼が能動的に愛について考えるようになったことだ。つまり、桃香のことを愛したいと、自分にどんな過去があれ、心から守りたいと、純粋にそう思えるようになったことだ。

確かに、未だに頭痛とともに『声』はする時がある。だからこそ、真一は『彼』に問うてみたかった。伝えてみたかった。すなわち、「お前が見放したこの世界も、そんなに悪くはないよ」と。

今まで彼を支配していた、曇天あるいは荒天の思い出。 その記憶は、彼女のへにゃっとした笑顔の前に、屈しようとしている。

『人生は油絵のようだ』と言った、とあるひねくれた詩人がいた。つまり、単なる積み重ねではなく、下の色を受けて新しく塗り重ねてゆく作業なのだと。人は悲しいかな、忘れてゆく生き物だ。その良し悪しは誰にも判別できない。してはならない。しかし、悲しいという感情は自分の中に確実に存在する。それは潰してはならない現実だ。

俺は、お前のことを忘れる日が来るかもしれない。そのことを、お前はきっと許さないだろうな。許さずに、恨み続けるという形で、思ってくれるんだろうな。

――ごめん。俺、もう前に進むわ。

 

真一の病気は現代医学では完治しない。桃香も同様だ。しかし、二人はそのことを悲観してはいない。病気を得たからこそ、二人は出会い、愛を育んでいるのだから。


あの優しい夜を越えて以来、二人の絆は確かなものになった。時折、真一が幻聴と話をしていると、桃香が嫉妬して会話に割り込んで来ることがあるほどで、桃香はすっかり真一ひと筋、真一もまた桃香にベタ惚れ、絵美子が評するには、

「世紀のバカップル」

だそうだ。

「まだ二十一世紀始まったばかりじゃんよー」

桃香が抗議するも、絵美子は涼しい顔で、

「こんなん、他の追随を許さんわ! 私の前でくらい、手ぇほどいたら?」
「やだー」

真一の手を握りながら、猫なで声の桃香。真一はすっかり照れて、下を向いている。

「安田くん! 桃香を頼んだわよ」

絵美子に言われて、「は、はいっ」と返事する真一を、二人は笑った。

「上司じゃないんだから」
「上司みたいなもんです」

ぽそっと言う真一。

「何よそれ! そーゆーこと言うと、この絵美子様の披露宴、呼んであげないからねっ」
「えー! 絵美子のドレス姿見たーい!」

その日、江古田の喫茶店の一角は、穏やかな幸せに包まれていた。

最終話 虹 に続く