東京にも綺麗な星空が見える場所があってね。誰かにつけられた地名をそのまま使うのは野暮だから、僕は「星見ヶ丘」って呼んでる。
ちょっと厨二っぽいかな? 確かに、そうかもね。
もう一度、見せてあげたい、星見ヶ丘の夜空を。
僕は一人、降り注がんばかりの星々に圧倒されて、しばらく言葉を失っていたんだ。
ああ、本当に、君に見せてあげたい。それで君がどんな顔をするのか、見てみたい。決して笑ったりなんかしないよ。
君の笑顔をもう一度見てみたい。ただ、それだけなんだ。
第一話 ラナンキュラス
「はー、まだ水曜日かぁ。週末まで長いなぁー」
山岡佳恵はパソコンに向かってため息をついた。
「でも明後日はプレミアムフライデーじゃない?」
隣の席の先輩、宇部真奈美がカルテをめくりながら声をかける。しかし佳恵はため息を重ねた。
「ウチみたいな弱小センターにプレミアムフライデーなんて無縁ですよ。だいいち金曜日の午後三時以降なんて、相談者が一番駆け込む時間帯じゃないですか」
「確かにそうだね」
佳恵は席を立つと、軽くストレッチしてから、奥の席に向かって、「ねー所長。ですよね?」と、チクリとした声を飛ばした。
少しの沈黙の後、所長と呼ばれた男性がやや気まずそうに顔を覗かせる。
「あのね。ウチだって慈善事業じゃないの。ね、山岡さんも宇部さんも優秀だからわかるでしょ?」
つまり、このセンターの財政状況を、という意味だろう。真奈美はすかさず、
「わかってますよ、穴があくほど、給与明細見てますから」
そう言い放ってやった。
こころのケアセンター・ラナンキュラス。東京の西の都市にこぢんまりと在る、カウンセリングルームを提供するセンターだ。所長を務める北野修介は、女性陣の圧に負けじとプレゼンを始めた。
「思春期の人も青年期の人も確かにここのところ増えてきてるけど、包括的なケアが必要だとされて、結局、大手のセンターにクライアントを持っていかれちゃうでしょ」
業績を棒グラフにした紙を見せながら、鼻息荒くこう問いかけた。
「これは危機だ。自分たちには何が足りないと思う?」
しかしながら、女性陣は容赦がない。
「お金」(佳恵)
「肌の潤い」(真奈美)
即答する二人に北野は肩をガクッと落とした。
「そうじゃなくて」
気を取り直すべく北野はコホン、とわざとらしく咳払いをした。
「提案なんだけど……」
「なんですか、CMでも打つんですか? お金もないのに」
真奈美は冷たく突き放す。だが北野はまんざらでもない様子である。
「近い。ズバリ、営業だよ。アウトリーチするんだ。当センターの魅力を、必要としていそうな場所や人へ自分たちが出向いてアピールするんだ。こんなところで口を開けて待ってるだけじゃダメなんだよ。受け身じゃなくて、能動的にクライエントをゲット!」
佳恵と真奈美は顔を見合わせた。
「なんていうか……」
「ちょっと、ねぇ。どうかと思いますよ」
つれない態度にも、北野はくじけない。
「いいかい。自分たち専門家ってのは、ややもするとお高くとまりがちだ。それじゃダメなんだよ。謙虚に、朗らかな営業スマイルだって、これからは必要なんだ!」
「……気持ちはわかるけど……」
「というわけで。早速、明日から営業、行ってもらうからね。まずは山岡さん」
「えっ、私!?」
「若い者には旅をさせるのが、ウチの方針だからね」
「初めて聞きましたよ……」
北野の無茶振りで、果たして翌日、佳恵はとある精神科病院のロビーにいた。
街中から明らかに離れた立地で、よく言えば自然に囲まれた、率直に言えば隔絶された場所に存在する。たどり着くまでにバスを二本も乗り継いだ。
それゆえ、到着時点ですでに佳恵は疲れていた。呼吸を整えると、病院の受付を通り「地域医療連携室」と標榜された部屋に案内された。
「臨床心理士の山岡と申します。この度はお忙しい中、ご対応いただきありがとうございます」
「あ、はいはい」
当の佳恵も戸惑っていたが、病院のソーシャルワーカーも若干迷惑そうに佳恵に応対した。
「病棟見学といっても、患者さんたちのプライバシーがあります」
「すみません」
「あと、病院にはすでにカウンセラーもいますしねぇ」
何をしにきたのだと言わんばかりの態度だ。高圧的なソーシャルワーカーに対して、ひよっこカウンセラーの佳恵は、すっかり怖気づいてしまう。
「あの、チラシを置いていただくだけでいいんです。それだけで、ええ」
「そうですか。じゃあ、預かりますよ」
「あ、はい」
もしも佳恵が営業職なら、間違いなく失格だ。しかし専門外のことを強いられて、佳恵はかなり嫌気がさしていたので、正直どうでもいいと思い、あっけなくその場を後にした。
「ふー」
病棟の中庭に設えられたベンチに腰掛け、長く息を吐く。カウンセラーだって人間だ。いくらストレスマネジメントを学んだからといって、みんながみんな、それに長けているわけではない。ましてや佳恵のような若僧なら尚更のことだ。
見上げれば、初秋の空を流線状の雲が泳いでいる。
雲には、悩みなんてないんだろうな。ぽっかりと浮かぶばかりで。いいなぁ、あぁ。
帰ったらなんて報告しよう。所長、怒るかな。いや、ガッカリするだろうな。
「……?」
ふいに佳恵は背後に違和感を覚え、振り返った。
するとそこに、ジーパンにTシャツというラフないでたちの青年が、じっとこちらを見ている。
佳恵が話しかけるより早く、青年が声を発した。
「君、新入り?」
「えっ」
青年は佳恵をまっすぐ見てくる。
「ダメだよ、早く戻りな。もうすぐ作業療法が始まるよ」
どうやら、佳恵を患者と勘違いしているようだ。
「えっと……」
ようやく目を合わせた佳恵は、しかし瞬時に全身の血の気が引いていくのを感じた。
「――!」
青年は気にせずに続ける。
「看護師に見つかったら面倒だから。目をつけられたら、もっと厄介なことになる」
「あ、え、えっと」
「急いだ方がいいよ」
「……す、すみませんっ」
佳恵は駆け出し、そこから逃げるように去ってしまった。
青年は首をひねり、つまらなそうに佳恵の後ろ姿を見やった。
(え、なんで、どうして? どうして、「あの人」が、あそこにいるの……?)