第二話 シュークリーム

「おかえりー」

佳恵がセンターに戻ると、北野が茶菓子を用意して待っていた。

「どうだった?」

ざっぱくな北野の問いに、しかし佳恵は「はー」とため息をつくばかりだ。

「ダメだったの?」

北野が畳み掛けるも、佳恵は首を横に振って、正直に報告した。

「チラシは置いてもらえるそうです。病棟の公衆電話の近くに」
「おぉ、良かった。頑張ってフォトショ使った甲斐があったよ」

チラシにはどう見てもアキバ系アニメのような萌え系美少女が二人と、イケメンが一人描かれている。中央には、『キミの心に寄り添っちゃうぞ☆』の丸文字。

佳恵にはつっこむ気力もない。そこは真奈美がしっかりとカバーした。

「そもそも誰をターゲティングしたんですか、このチラシは」
「よくきいてくれた!  もちろん、私たちの専門の思春期から青年期の人たちだよ。キャッチーでしょう」
「所長が絵師だったとは知りませんでした」
「いやぁ、それほどでも」

そんな北野と真奈美のやりとりなど何処吹く風、佳恵は上の空だ。

真奈美が冷たいお茶を差し出してくれる。

「何かあったの? 慣れない営業、疲れちゃった?」
「あ、いえ……」

佳恵は取り繕うように、「何でもないです」と言った。

「嘘つけ」

真奈美は即断した。中堅臨床心理士の勘とでも言うべきか。

「無理に話さなくてもいいけど、つらかったら吐き出すこと! 臨床心理士がそれを忘れてどうするの」
「はぁ、まぁ、そうですね」

佳恵の歯切れの悪さに、真奈美はこれ以上の深掘りはやめたほうがいいと判断し、

「ほら、せっかくのシュークリームがぬるくなるよ」

佳恵に目の前のスイーツを食べるよう促した。

そこへ北野が得意げに入り込んでくる。

「南口のカフェあるでしょう、ポムポム。あそこのポイントカードが満タンになってね、一個オマケしてくれたんだ」
「ありがとうございます」

シュークリームを一口かじると、程よい甘みが口に広がる。疲れは消えないが、それでもほっと癒される。

北野は茶葉の入った缶を手にし、

「お茶の葉っぱってさ、お湯を注がないと、ただの枯葉なんだよねぇ」

そんな詩人じみたことを話しだした。

「人の心もおんなじ。味を出すには涙が必要な時があるんだよ」

いつも女性陣に気圧されがちの北野だが、伊達にカウンセリングルームの所長はしていない。佳恵のようなひよっこの心の内など、すぐにお見通しなのだろう。

「何があったかは話せるようになるまで、話さなくていいよ。でも、変な遠慮をしたら、承知しないからね」

佳恵はシュークリームを完食すると、ぺこりと頭を下げた。


精神科病棟の一日は非常に規則的だ。それは患者の健康のためという建前らしいが、病院側が患者を合理的に管理するための方便であることはあまり知られていない。場所によっては通信や面会も制限される。今どき、スマホはおろか手紙すら、看護師などの「検閲」が入る場合があることもあるのだ。

もちろん、人権的な観点からいえば問題なのはもちろんだが、事を荒立てれば(つまり、医師や専門家に歯向かえば)「保護室」という名の独房に入れられてしまうこともある。しかしそれらもすべて「患者のため」。この言葉で、他ならぬ患者本人の意思や自尊心が潰されている現実から、どうして目を背けることができるだろうか。

昨日も女性の「仲間」が一人、病棟から保護室行きになった。男性看護師に腕を引っ張られた際に胸元を触られたと騒いだためである。事の真偽は明らかではないが、ここではどんなに患者が主張したところで、「被害妄想だ」「嘘を吐くな」と言われて処理されてしまう。

病院とは、患った人間が羽を休めるための場所だと思っていたが、それはとんだ見当違いだった。犬伏裕司もまた、ここでの暮らしが長引くにつれ、いかに医療職や専門職のご機嫌を損ねないか、そんなことばかりが上手になっていく自分に、嫌気がさす以上に虚しさを感じていた。

こんな場所で顔色をうかがうことだけに長けていって、歳を重ねて、自分はここで死んでいくのだろうか。

「作業療法の時間です。E棟に移動してください」

デイルーム(患者たちが日中を過ごす場所)に設えられたテレビから流れる、どうでもいいワイドショーを頬杖をついて観ていた裕司は、看護師のその言葉を一旦無視した。

「犬伏さん、作業療法の時間ですよ。聞いてるの?」

……どうしてこう、無駄に威圧的なんだろうか。

「はい。このニュースが終わったら移動します。大物俳優MとアイドルFが熱愛って」
「何言ってるの。9時半には先生のご挨拶が始まるのよ」
「……」

精神科医からの、ありがたーいお説教。そんなもののために、自分の時間が縛られている。

「……わかりました。靴を履き替えてきていいですか。今、コレなんで」

そう言って裕司は、足元のクロックスを指さした。

「急いでくださいね。でも、フロアは走っちゃダメよ」

平気で無茶なことを言う。もっとも、彼女らの患者に対する不遜な態度は、今に始まったことではない。

裕司は自分の病床に戻ると、緩慢な動作でスニーカーに履き替え、長く息を吐いた。

また、退屈な一日がなんとなく始まって、惰性で終わる。いつまでこんなことを繰り返すのだろう。


「私たちは人を救うだなんて、そんな傲慢なことは考えていません。ただ、皆さんに考えてみてほしいのです。命が有限であることの意味を。いつまでも過去の傷に囚われて未来を潰すのは、不合理だと思いませんか?」

裕司は心の中で唾を吐き捨てた。もっともらしいことを言って、目くらましをしている。捨て置ける程度の傷ならば、とっくに捨てた。

それでも彼に穿たれた痕はあまりに深く、この精神科医のいう「有限」のうちには到底塞がりそうにない。

確かに、あんた達には人を救うなんてできないよ。できるわけがない。なのに、なんで偉そうにそこで喋っているんだ?

「犬伏くん?」

裕司はハッとして呼ばれた方へ振り返った。同じ病棟の長谷川恵が心配そうにこちらを見ている。

「大丈夫? 凄い怖い顔して」
「え、あ。大丈夫です。すみません」

知らないうちに、滔々と口上を垂らしている精神科医を睨みつけてしまっていたらしい。幸いにも、看護師や作業療法士には気づかれなかった。

「お腹が痛いとかテキトー言って、サボっちゃえば?」

恵がそそのかす。それも悪くないと思い、裕司は恵に視線を一瞬だけ送って、その場にうずくまった。

「犬伏さん、どうしたの!?」

驚く看護師。裕司はわざとらしく涙さえ浮かべながら、

「お、お腹が痛くて……ごめんなさい」
「先生、犬伏さんが」

うろたえる看護師。演説を邪魔された医師は若干不機嫌そうに、

「バイタル、後でチェックしといて。君、部屋に戻りなさい」

と言い放った。

裕司は内心で「こんなもんか」と呟いた。

第三話 電話が鳴った