第三話 電話が鳴った

なまじお腹が痛いと言ってしまったため、その日の昼食はお粥にされてしまった。午後二時には既に空腹を感じてしまった裕司は、散歩ついでに売店に寄ることにした。外出時は、ナースステーションの前にあるノートに名前と用件、戻る時間を書かなければならない。いちいちここまで管理されていのかと思うと、どうしても筆圧がかかってしまう。

売店には変わりばえのしない品物が並んでいた。裕司はコッペパンを手に取って、中庭へと向かった。


中庭のベンチには先客がいた。四十代半ばくらいの女性だった。名前はよく知らないが、同じ病棟の患者だ。何かのペーパーを食い入るように読んでいる。

「あの、隣、いいですか」

裕司が声をかけると、女性は軽く頷いた。ちら、と横目で見てみると、アニメのようなイラストに『こころのケアセンター・ ラナンキュラス』の文字。さらに『キミの心に寄り添っちゃうぞ☆』。

(……バカバカしい)

裕司がコッペパンを一口かじると、女性がポツリと言った。

「ここの病院のカウンセラーより、マシなのかしら」
「……」

イチゴジャム味を買ったつもりが、つぶあんマーガリンだった。よく見てなかったな。

「それともカウンセラーなんて、どこも変わらないのかな」

つぶあんマーガリンも別に悪くはないが、イチゴジャムが恋しくなる。ないものねだりだ。

「ねぇ、どう思う?」

ふいに話しかけられて、裕司は少しの間もぐもぐと沈黙してから

「さぁ。どうなんですかね」

と適当な返答をした。

「寄り添う、って、どういう意味なのかな」
「さぁ……」
「これ、あげる。きっと私には無意味だから」

半ば無理やり、女性はラナンキュラスのチラシを裕司に手渡し、去って行った。

「……」

取り敢えず、目を通す。チラシの下部に、所属している臨床心理士の名前が表記されていた。なんとなく読んでいた裕司の視線が、ある場所で止まる。

『臨床心理士 山岡佳恵』

「え……」

いや、まさか。

ただの同姓同名だろう。どこにでもいそうな名前じゃないか。

問い合わせ先の市外局番は042から始まる。ラナンキュラスとやらは、東京都の八王子市にあるらしかった。

(寄り添う、か)

裕司は、チラシを折ってポケットにしまうと、コッペパンの残りを平らげた。


病棟に戻っても、午後は特段することがない。週に一回、リハビリと称してシーツ交換をさせられるくらいで、あとは一日置きに風呂。それも二十分間で着替えまで済ませなければ、看護師や掃除係に小言を食らう。

患者たちはデイルームで麻雀やカードゲームに興じる者、テレビを無為に観る者、めいめいに過ごしているが、そこには到底、「充実した」などという言葉は似合わなかった。

祐司もまた、そんな環境に身を置く一人であったから、日々、曇天のような時間をどう過ごすかを思案していた。そこへ舞い込んできた、一枚のチラシ。暇つぶしには、ちょうどいいかもしれない。

「電話、借ります」

裕司の処遇されている病棟では、今時スマホはおろか携帯電話の類は『治療の妨害となるため』禁止されている。ナースステーション近くの公衆電話は、貴重な通信手段だった。

「どこにかけるの?」

看護師がプライバシーへの配慮のかけらもない言葉をぶつけてくる。祐司は作り笑顔で、

「……この、チラシを見て、ちょっと興味があって」
「そう。5分以内でお願いしますね」

そんなの、知ってるよ。何度聞いたことか……。


不登校の女子中学生の相談を終えた真奈美が、クライアントを見送ってから事務室に戻ってくるや否や、

「あっ!」

と声をあげた。

ビックリしたのは北野だけではない。佳恵まで目をまん丸くしている。ただし、真奈美の声に対してではない。なんと、滅多に鳴らない相談専用の電話回線が鳴っているのである。

「は、早く取って!」

真奈美が叫ぶも、北野は「バンザーイ!」と小躍りするし、ビビっている佳恵はフリーズしているしで、このままではチャンスの神様(前髪しかなくて逃すと掴めないという噂の)が逃げてしまう。真奈美は俊敏な動きで受話器に飛び込んだ。それは極めて鮮やかな動作であったと後に北野は振り返る。

「はい、こころのケアセンター・、ラナンキュラスです」

真奈美はさすがプロといったところか、リカバーされた落ち着きで電話に出た。

その様子を、拝むような仕草で北野と佳恵が見守っている。

「はい、出張相談、大歓迎です。ご希望の場所などはありますか?」

真奈美が、チラッと佳恵の方を見て、親指をビシッと上げている。

「駒春日(こまかすが)病院の方ですね。ありがとうございます」

駒春日病院とは、先日佳恵が営業に行った病院だ。若干、いや完全に逃げ帰った佳恵には、願ってもない朗報だ。

「では、火曜日の午後二時にお伺いしますね。安心してください、一介の面会者として行きます。お客様の個人情報はしっかり守りますので。では、失礼します」

流れるような手つきで受話器を置く真奈美。得意満面で佳恵を見ると

「というわけで、佳恵ちゃん、出番よ」
「えっ、ええっ、私ですか!?」
「当たり前じゃない。自分の営業の成果は自分でもぎ取る!」
「うー……」

援護を求めようと北野に視線を送るも、北野は「交通費、申請しといてね~」というばかりだ。

山岡佳恵、ドッキドキの出張相談デビュー。

この時の決断が自分の運命を大きく左右するだなんて、この時の佳恵には知る由もなかった。

第四話 潜入