第四話 潜入

秋が一歩ずつ前進して、空気が澄み始める。この季節の風物詩といえば文化祭だ。駒春日病院も例外ではなく、『春日祭』なる催しが開かれることを知ったのは、最初は病院のロビーのポスターだった。

精神科病院が、文化祭。しかも、患者がそれこそリハビリと称して出店に立たされるのだ。ここでも建前というのは非常に効果的に機能していて、この催しは「地域社会にひらかれた病院をアピールするため」だという。こんな、東京の西の隅、それも高尾山の中腹にある病院が、どこをどうして「地域社会にひらく」というのだろう。紅葉ばかりは皮肉にも見応えがあるので、ぜひ多くの地元民に見てほしいものだ。


裕司はもう何度読んだかわからない詩集を手にして、中庭のベンチに座っていた。風が、心なしか冷たくなった気がする。季節はどんどん変わっていく。自分は、置いてけぼり、だ。気がつくと夏は去っている。蝉の遺体だけがアスファルトに転がって、影法師も消えていく。いつだって、最後に遺されるのは自分なのだ。

文化祭? 笑わせるな。


面会をした火曜日も、天に呼吸が突き抜けるような快晴だった。

「着いた……」

バスを降りた佳恵は、呼吸を整えようと必死になっていた。真奈美から伝え聞いた依頼人の情報の資料には、一通り目を通していた。山田一郎さん、26歳、男性、統合失調症。ここまでが本人申告。あとは、声が結構イケボイスだった。これは真奈美の主観。面食いの真奈美が言うのだから、よほどいい声なのだろう。もっとも、そんなことはカウンセリングには何の関係もない。

病院の玄関近くのトイレに入って、すかさずカバンから丸メガネとおさげのウィッグを取り出し、装着する。変装、あっけなく完了。

どうしてこんな小細工が必要なのかと言えば、あくまで一面会者として病棟に入るためだ。佳恵は制度の詳しい仕組みをわかっていないが、ハッキリしているのは、自分が病院側からすればモグリのカウンセラーであるということだ。病院には専属のカウンセラーがいる。いい顔はしないだろう、先日のソーシャルワーカーのように。

だから、どこか気は引けるが変装をして病棟に行けとの、北野の指示であった。

面会者シートに必要事項を記載し、受付に提出する。判が捺されればめでたく潜入成功だ(佳恵的には、「潜入」という表現がピッタリだった)。ところが、「すみません、山岡さん」と、受付嬢が困った顔で、シートを突っ返してきた。

「はい?」

「当院には、『山田一郎』様という患者様はいらっしゃいません」
「え……?」
「お間違いではありませんか?」
「えっと……」

まずい。と、ここで、咄嗟に佳恵はこんなことを言った。

「あの、山田さんじゃないかもしれません」
「はい?」

明らかに訝しがる受付嬢。

「山内さん、だったかなぁ。山野さん、だったかなぁー」

佳恵は頬をぽりぽりと掻きながら、

「もう随分と昔の知り合いなもので。あの、そうだ、幼馴染なんですけど。だから、その……」

受付嬢はパソコンのモニタを見ながら、

「あ、山野一郎さんですか?」

素晴らしいトスを上げてくれた。

「はい、そうです! そうですそうです」
「開放のB棟にいらっしゃいます。どうぞ」

佳恵は心の中でガッツポーズを決めた。

考えたら、相談者が偽名を使ってのインテークは決して珍しいことではない。ましてや、どこの馬の骨ともわからない相手に重要な相談をするときに、本名を名乗る人の方が少ないかもしれない。

丸メガネにおさげ髪、秋色のワンピースという地味な風体の佳恵が病棟に入ると、それでも浮いて見えたらしく、すぐに看護師に呼び止められた。

「面会の方ですか?」
「あ、ハイ」
「面会室が今空いてなくて。ごめんなさいね。デイルームの隅のソファが空いていますから、よかったらどうぞ」
「ありがとうございます」

佳恵はソファに腰掛け、デイルームを一望した。26歳、という情報までは嘘ではないだろう。見渡して、その年齢くらいの男性を探そうとした。ところが、それらしき人物は見当たらない。ちらりと佳恵を見る人々はいても、皆、我関せずといった様子だ。

(困ったなぁ)

佳恵が身を持て余していると、一人、女性患者が近寄ってきた。

「お茶、飲みます?」

恵だ。手首と腕に包帯を巻いている。彼女はリストカットを繰り返しているらしい。その腕を伸ばして、紙コップに入った冷茶を渡してきた。

「どうぞ」
「あ、どうも」

佳恵は会釈し、お茶を受け取った。恵はニコッと笑い、

「暇なんだよねぇ。あなたみたいに面会に来てくれる友達もいないし」
「そうなんですか」
「ねえ。それ、伊達メガネにウィッグでしょ」

ギクリとする佳恵。バレバレのようだ。

「いいなぁ、おしゃれできて。私も退院したら思いっきり遊びたいな」

マイペースな恵。佳恵はなんとか気を取り直した。

「あの、この病棟に25、6歳の男性患者さんはいませんか?」
「うーん」

恵は少し考えてから、

「……一人、いるにはいるんだけど、今は会えないかもよ」
「え、どうしてですか?」

ふと憂鬱そうな表情になった。

「お仕置きされてるの」
「『お仕置き』?」
「そ。文化祭のことディスったら、師長の機嫌を損ねちゃったんだよね。そうしたら『暴れた』って言われて、保護室行き」
「そんな――」
「そんなもんでしょ」

恵がぽつりと言う。

「家族以外は今、会えないと思うよ」
「……」

佳恵の視界に、春日祭のポスターが飛び込んできた。設えられた公衆電話の近くには、種々のお知らせに混じって、ラナンキュラスのチラシが隠れるように置かれている。

「犬伏くん、何も悪くないのになぁ」
「……」

佳恵の背筋に冷たいものが走る。

――その名前。やはり、そうだ。あの日、佳恵は見間違いなんかしてなかったのだ。どこかで予感はしていた。

『犬伏』なんて苗字、そうないだろう。

佳恵はお茶を飲み干して、ソファから立ち上がった。丸メガネを人差し指でくいっと上げた。

……『家族以外、会えない』のなら――

「実は私、犬伏さんの生き別れの妹なんです」