佳恵の中には、企みという名の衝動が渦巻いていた。それは、懐かしい日々を急速にたぐり寄せた時に発せられる「もや」のように彼女を包み始めた。
自分の目の前に、犬伏裕司がいる。もはや見間違いようがない、現実。これをここで今受け止めないで、いつ動けというのだろう。
佳恵は、大切な忘れ物を思い出したような気持ちになって、深呼吸した。
「生き別れの妹?」
訝しがる裕司に、佳恵はささやきかけた。
「悪いようにはしませんから」
それではまるで悪人の言葉だ。
「いいですか、今から『おぉ、妹よ』とだけ言ってください」
「はい?」
「お兄ちゃん!」
突然、佳恵はそう叫んだ。
「お兄ちゃん、こんなに立派に大きくなって……」
裕司は当然、混乱する。
「ずっと会いたかった! やっと会えたのよ!」
そして、裕司に向かって小声で「『おぉ、妹よ』、です」と促す。
裕司はためらいがちに、
「お、おぉ。いもうとよ」
「お兄ちゃーん!」
「おぉ、いもうとよー」
「お兄ちゃーん!」
「おぉ、いもうとよー」
「はい、そういう訳なんです」
佳恵は、扉の向こうで聞き耳を立てている人物に向かって言う。面会室の扉を開くと、ソーシャルワーカーが気まずそうに立っていた。
「どうも、兄がお世話になっております」
「いえ……」
「犬伏裕司の外出許可をください。久々の兄妹の再会なんです」
問答無用といった雰囲気の佳恵に、ソーシャルワーカーの男性は、盗み聞きしようとした負い目もあってか、
「……主治医には、私から言っておきます」
神妙ぶった表情で、そう言った。
裕司はほぼ着の身着のままで、佳恵に導かれるままにタクシーに乗り込んだ。佳恵は運転手に軽やかに言う。
「JR八王子駅までお願いします」
「あの……」
裕司が話しかけるも、佳恵はどこ吹く風だ。
「あ、運転手さん、後で領収証もください」
(……この人は、何を考えているのだろう。)
裕司は戸惑いを隠せずにいたが、突如訪れた『自由』に、タクシーの窓を少し開けて深呼吸した。
秋めいてきた高尾山の道を抜けると、少しだけ紅葉した葉も見られる。何よりも、澄んだ空気が広がっていて気持ちがいい。
――こんな気分、いつぶりだろう。まるで季節に追いついた気分だ。
タクシーは制限速度をやや超えたスピードで、八王子の市街に突入した。その頃になってようやく、佳恵が口を開いた。
「……なんか、懐かしくないですか」
「え?」
佳恵は丸メガネとウィッグを取って、はねた前髪を整えた。
「こういうテンション、なんだか学生みたいで」
「……!」
「ねぇ、犬伏先輩」
「まさか」
佳恵は裕司の隣で首をちょこっと傾げて、
「お久しぶり、です」
ニコリと笑う。
「昔と違って茶髪にショートカットだから、気づきませんでしたか?」
裕司はしばし沈黙してから、ぽつりと言った。
「……本当に、君なのか」
佳恵はその問いには直接は答えなかった。
「先輩。『すただす』のこと、覚えてますか」
「……」
遠い記憶。懐かしい出来事たち。すべては美化されて脳裏にしっかりと収納されている。
「圭太は三鷹市の公務員。純子は町田のクリニックで看護師やってます。理恵はもう、結婚して子どももいるんですって」
「…………」
すただす。それは『スターダスト』に由来する、白玲高校の天文部の愛称だ。
ペルセウス座流星群を追いかけて、みんなで夏の夜を駆けた、あの日。
忘れるわけない。忘れられるわけがない。
過ぎてしまえば、全てが愛おしくなる。青春とは、そういうものだ。
裕司は目を細めた。
あまりに、懐かしい。懐かしすぎて、どう思い出したらいいか……わからない。