第九話 忘れ物

壁掛け時計の秒針ばかりが進んでいるようにすら感じられた。北野は佳恵からの連絡を待っていたが、一向に鳴らない電話に若干の焦りを感じはじめていた。

「遅いね」
「遅いですねぇ」

真奈美はカフェラテを飲みながら相槌を打つ。

「私、5時から新規で相談が一件入ってるんです。すみませんが、電話番よろしくです」

所長自ら電話番とは、弱小センターならではだ。真奈美は相談室へと去って行った。

おかしいなぁ。あのチラシ、結構力作だったんだけどな。ピクシブで磨いた腕を惜しげなく発揮したんだけどなぁ。

北野がそんなことを考えていると、事務連絡用の電話が鳴った。「お!」と北野は手を叩いた。

「はい、もしもし、山岡さん? 遅かったじゃなーい」

だが、声の主は佳恵ではなかった。

「は?」

北野はポカンとする。

「び、病院?」


硬直した表情の裕司は、それでも何とか現実にしがみつこうと、マグカップの取手をぎゅっと握った。その手がカタカタとわずかに震えている。

佳恵は、そんな彼をどうにか受け止めようと、その背中をさすりながら、

「ごめんなさい、ここは賑やか過ぎましたね。落ち着ける場所へ行きましょう」
「……」

裕司はようやく絞り出した声で、

「ごめん……」

弱々しくポツリと呟く。

「謝らないでください、どうか」

佳恵は頷いた。


「あの、すみません。状況がよくわからないのですが」

北野が憮然となって電話口に応対している。

「何なんですか。人聞きの悪いこと言わないでください。第一、ウチが関与しているという証拠はあるんですか」

すると、電話の向こうの人間は、「結構です」と言って一方的に切ってしまった。

「なんなんだ、まったく」

憤慨する北野。突然、「おたくのセンターは何を考えているのか」などと問われれば、当たり前の話だ。

「あ~、気分悪っ」

しかも、人を誘拐したのなんだの言われては、頭にくるのも当然。

「いかんいかん、イライラは良くない。良くないぞぉ。こんな時は、リフレッシュ!」

北野が気を取り直して、戸棚から新しいティーパックを取り出しその封を切ろうとした時だ。

センターの前に、タクシーが停まった。

「あれ?」

降りてきたのは、佳恵だ。それともう一人、見覚えのない男性が、佳恵に支えられるようにして出てきた。

「ただいま、戻りました」

佳恵はやや紅潮した表情で言った。

「おかえりなさい。その人は?」

その問いに、佳恵は躊躇することなく、「私の、大切な忘れ物です」と答えた。

北野は「え?」と面食らったが、佳恵は構わずに、裕司をセンター内へと誘導した。ふらふらと歩く裕司。

「ちょっと、その人、大丈夫なのかい?」
「大丈夫じゃないから、ここへ来たんです」
「え、何、どちら様?」

戸惑いながらも、お茶の準備をする北野。こういうところに彼の人柄がよく表れている。

「カフェラテか、ハーブティーか、それとも日本茶がいいですか」

北野に話しかけられても、裕司の反応はない。

「さっき抹茶を飲んだんで、ハーブティーでお願いします」

代わりに佳恵が答える。

「所長のオリジナルブレンドで。リラックスにてきめんに効くやつがいいです」
「おっ!  久々のリクエストだね? 任せてくれよ、腕が鳴るなー」

上機嫌で鼻歌交じりに腕まくりする北野。オリジナルブレンドと言うのはあながち間違いではなく、北野が調合するハーブティーは、飲むと特に翌日の肌の化粧ノリがいいと、真奈美と佳恵からはもっぱらの評判だ。

「ここ、座ってください」

佳恵がソファに手を添える。裕司はゆっくりと、

「……はい……」

と返事し、やはり緩慢な動きでソファに腰かけた。

「今、所長が美味しいハーブティー淹れてますから」
「……」
「大丈夫です。ここは、安全な場所です」

裕司に言い聞かせるように、佳恵は言う。

「横になってもいいですし、なんなら毛布もあります」
「……」

裕司はボーッと壁に飾られた写真を見ている。北野が趣味で撮ったものばかりだが、その中の一つに、夜空の写真があった。そこで裕司の視線が固定される。

「あ、それ、私も好きなんです」

佳恵がメガネとウィッグをロッカーにしまいながら、

「所長、なかなかのカメラの腕前ですよね」

と半ば茶化すように言った。

「……どこ?」
「え?」
「これ、どこの星空?」

裕司の問いに、しかし佳恵は答えられない。佳恵は思わず裕司の顔をまじまじと見てしまった。

裕司の目が、愛おしいものを見るように細められていたからだ。

第十話 寄り添う