壁掛け時計の秒針ばかりが進んでいるようにすら感じられた。北野は佳恵からの連絡を待っていたが、一向に鳴らない電話に若干の焦りを感じはじめていた。
「遅いね」
「遅いですねぇ」
真奈美はカフェラテを飲みながら相槌を打つ。
「私、5時から新規で相談が一件入ってるんです。すみませんが、電話番よろしくです」
所長自ら電話番とは、弱小センターならではだ。真奈美は相談室へと去って行った。
おかしいなぁ。あのチラシ、結構力作だったんだけどな。ピクシブで磨いた腕を惜しげなく発揮したんだけどなぁ。
北野がそんなことを考えていると、事務連絡用の電話が鳴った。「お!」と北野は手を叩いた。
「はい、もしもし、山岡さん? 遅かったじゃなーい」
だが、声の主は佳恵ではなかった。
「は?」
北野はポカンとする。
「び、病院?」
硬直した表情の裕司は、それでも何とか現実にしがみつこうと、マグカップの取手をぎゅっと握った。その手がカタカタとわずかに震えている。
佳恵は、そんな彼をどうにか受け止めようと、その背中をさすりながら、
「ごめんなさい、ここは賑やか過ぎましたね。落ち着ける場所へ行きましょう」
「……」
裕司はようやく絞り出した声で、
「ごめん……」
弱々しくポツリと呟く。
「謝らないでください、どうか」
佳恵は頷いた。
「あの、すみません。状況がよくわからないのですが」
北野が憮然となって電話口に応対している。
「何なんですか。人聞きの悪いこと言わないでください。第一、ウチが関与しているという証拠はあるんですか」
すると、電話の向こうの人間は、「結構です」と言って一方的に切ってしまった。
「なんなんだ、まったく」
憤慨する北野。突然、「おたくのセンターは何を考えているのか」などと問われれば、当たり前の話だ。
「あ~、気分悪っ」
しかも、人を誘拐したのなんだの言われては、頭にくるのも当然。
「いかんいかん、イライラは良くない。良くないぞぉ。こんな時は、リフレッシュ!」
北野が気を取り直して、戸棚から新しいティーパックを取り出しその封を切ろうとした時だ。
センターの前に、タクシーが停まった。
「あれ?」
降りてきたのは、佳恵だ。それともう一人、見覚えのない男性が、佳恵に支えられるようにして出てきた。
「ただいま、戻りました」
佳恵はやや紅潮した表情で言った。
「おかえりなさい。その人は?」
その問いに、佳恵は躊躇することなく、「私の、大切な忘れ物です」と答えた。
北野は「え?」と面食らったが、佳恵は構わずに、裕司をセンター内へと誘導した。ふらふらと歩く裕司。
「ちょっと、その人、大丈夫なのかい?」
「大丈夫じゃないから、ここへ来たんです」
「え、何、どちら様?」
戸惑いながらも、お茶の準備をする北野。こういうところに彼の人柄がよく表れている。
「カフェラテか、ハーブティーか、それとも日本茶がいいですか」
北野に話しかけられても、裕司の反応はない。
「さっき抹茶を飲んだんで、ハーブティーでお願いします」
代わりに佳恵が答える。
「所長のオリジナルブレンドで。リラックスにてきめんに効くやつがいいです」
「おっ! 久々のリクエストだね? 任せてくれよ、腕が鳴るなー」
上機嫌で鼻歌交じりに腕まくりする北野。オリジナルブレンドと言うのはあながち間違いではなく、北野が調合するハーブティーは、飲むと特に翌日の肌の化粧ノリがいいと、真奈美と佳恵からはもっぱらの評判だ。
「ここ、座ってください」
佳恵がソファに手を添える。裕司はゆっくりと、
「……はい……」
と返事し、やはり緩慢な動きでソファに腰かけた。
「今、所長が美味しいハーブティー淹れてますから」
「……」
「大丈夫です。ここは、安全な場所です」
裕司に言い聞かせるように、佳恵は言う。
「横になってもいいですし、なんなら毛布もあります」
「……」
裕司はボーッと壁に飾られた写真を見ている。北野が趣味で撮ったものばかりだが、その中の一つに、夜空の写真があった。そこで裕司の視線が固定される。
「あ、それ、私も好きなんです」
佳恵がメガネとウィッグをロッカーにしまいながら、
「所長、なかなかのカメラの腕前ですよね」
と半ば茶化すように言った。
「……どこ?」
「え?」
「これ、どこの星空?」
裕司の問いに、しかし佳恵は答えられない。佳恵は思わず裕司の顔をまじまじと見てしまった。
裕司の目が、愛おしいものを見るように細められていたからだ。