第十話 寄り添う

こころのケアセンター・・ラナンキュラスは、八王子駅から少し奥まったところにある、小さなカウンセリングルームだ。北野修介が十年ほど前に、病院から独立して起業した。

北野はいくつかの精神科病院についてその内情をよく知っている。中には、「治療」からは程遠い環境の場所もあって、患者たちが無為に過ごすだけという状況に疑問を抱いた彼は、やがて上層部と対立し、最後に勤務した病院は喧嘩別れ、クビ同然であった。

精神的な疾病を持つということは、きっと感情を受け止める器がひび割れている状態のことなのだ。散らばった破片を、丁寧により集めていく作業の、ちょっとした手伝いをしたい。誰だって、悩み苦しむ。精神障害を持った人は、負荷が大きすぎたか、繊細であるか、あるいはその両方だ。決して他人事などではない。そういう想いから、ラナンキュラスを立ち上げた。

当時駆け出しだった宇部真奈美を、半ば無理やり引き抜いた。その負い目もあってか、北野は真奈美に頭が上がらない。もちろん、そのことを恨むような真奈美ではないが、真奈美は真奈美なりに想いがあってラナンキュラスに来たのだという。

山岡佳恵といえば、大学院でなんとか博士論文を書き終えて、教授のコネで大企業の産業カウンセラーとして雇われ、晴れて臨床心理士として漕ぎ出そうとした矢先、その教授が論文の不正と金銭授受の汚職で捕まり、就職がおじゃんになるという憂き目に遭った。失意の底にいた彼女が、偶然、タウン誌でラナンキュラスの「職員募集」の広告を目にし、縋る思いで電話をしたことがきっかけだ。その時のエピソードは、北野がいまだに酔うと語り草にしている。

「北野と申します。山岡さん、なぜ当センターを志望されたのですか」

「はい、えっと……」

口ごもる佳恵。

「こちらの、方針に、非常に、共感しまして……」
「方針?」

面接に同席していた真奈美がラナンキュラスのパンフレットをめくる。

「所長。自分で決めた方針、忘れないでください」
「ははは。大切なのは、ノリだよ」

笑う北野に気圧されながらも、佳恵は勇気を出して思い切った。

「『寄り添うことは、ともに泣き笑うことです』」
「うん?」

北野は首をひねる。

「こちらのセンターの、方針ですよね」
「そうだっけ?」
「所長!」

真奈美の叱責が飛ぶ。まるでコントだ。佳恵は内心オドオドしながらも、懸命に言葉を続けた。

「臨床心理士は、クライエントとは一定の距離を置くべきという鉄則と、こちらの方針はバッティングすると思ったんです」
「うん?」
「でも、よく考えたら……私は人と人として、クライエントと向き合いたい。仕事と割り切られるほど、人の心を、ぞんざいにはできません。だから、だから、その……ぁの……」

ゴニョゴニョ、言葉が尻すぼみになる佳恵。

「え?  大丈夫?」

真奈美が本気で心配する。

背水の陣。あまりの緊張から、佳恵は顔面を真っ赤にして、なんとこう口走ってしまった。

「いいから、私を雇ってくださいっ!!」


「ね、おかしいでしょ」

ハーブティーを注ぎながら、北野が楽しそうに話す。佳恵は恥ずかしさのあまり、北野が使おうとしたトレイで顔を隠した。裕司の目の前にマグカップが置かれる。

「ささ、どうぞ。ヤケドしないでね」
「すみません……」

裕司はかろうじて応答する。

「レモングラスは少なめだから飲みやすいと思うよ。キタノブレンド、今日も絶好調!」
「所長、テンション浮いてます」
「そう?」
「はい、かなり」
「いやん」

そんな二人のやりとりを聞きながら、裕司はマグカップに口をつけた。

口に広がる、優しい味わい。

「……美味しい」

裕司がそう呟くと、北野はガッツポーズした。

「嬉しいねぇ。美味いと言われるのが一番嬉しい」
「よかったですね」
「まぁねー」

北野は上機嫌のまま、ようやく佳恵に肝心なことを問うた。

「ところで、出前カウンセリングはどうなったの?」

その言葉に、佳恵は気を引き締めた。急に改まった様子で、コホンと咳払いした。

「はい。ある意味成功で、ある意味失敗です」
「……どゆこと?」
「新しい試みという意味では大成功。新しいクライエントをゲットするという意味では、大失敗でした」

北野の頭上に「???」が浮かぶ。

「じゃあ、こちらの方はどちら様?」
「駒春日病院の患者さんです」

北野の目が点になるが、佳恵は構わず続ける。

「それと同時に、私の、『忘れもの』なんです」
「……な、な、な」
「無理やり連れてきました」

北野は先刻の電話が間違いではなかったのだと気付き、仰天した。

「そ、そういうのを一般的には『誘拐』って言うんだよ、山岡さん!」

第十一話 彼女の告白