桐崎くん。最初に彼の名前を呼んだのはいつだろう。
彼はいつも背筋をしゃんと伸ばして、キャンパスを歩いていた。人気のない学部だったから、人数のそれほど多くない教室の中で、それでも彼は異彩を放っていた。
友人は少ないように感じられた。私はだから、そんな彼に関心を抱いていた。
「新歓コンパ以来だね。私、小林。小林智恵美」
「……桐崎真人」
教養科目の授業後、私はほとんど興味本位で、彼に話しかけた。
「桐崎くんはさ」
彼の柔らかい所作は、私の興味を引くのに十分だった。
「なんで地質学なんて専攻してるの?」
彼は私と目を合わせることなく、ノートにボールペンで円を描きながら、
「……ロマン、かな」
と答えた。
「ロマン?」
訝しげな顔をする私に、彼は表情一つ変えずに続ける。
「過去を手繰る心地よさ。命を塞ぐことの意味を問えるから」
私はふーん、とうなずいた。
「桐崎くんは過去に生きるタイプなんだね」
ズケズケと失礼な物言いだったかもしれないが、それでも問うてみたかった。
「でもそれなら、ほら、『生きる意味』とかなら、哲学科でもよかったんじゃないの」
そう言うと、彼は興味なさげに机の上の本をコツン、と指で弾いた。
「本にはあまり興味がなくて。考えるだけってのは、苦痛なんだ」
「えーっと、桐崎くんは行動したい派なのね」
「もちろんさ」
彼の表情が一瞬だけ紅潮したのを、私は見逃さなかった。
「小林さん、心理学専攻だったっけ?」
「あ、うん。思ったより難しくて苦戦中」
「どうして心理学を?」
私は不意打ちを食らった気分になったが、すぐに気持ちを立て直した。
「ロマン、ではないなぁ。なんとなく、かな」
「そうなんだ」
桐崎くんは、それを聞くと腕時計をちらりと見た。
「じゃあ、ロマンを見せてあげようか」
「はい?」
大学のすぐ近くに森林公園がある。五限も終わり、夕闇迫る時刻になってから、桐崎くんとそこの小高い丘の上で待ち合わせた。
「遅かったね」
ニコリともせず彼は言う。
「ごめん、出席票、夏菜子の分も書いてたから」
「お友達?」
「うん。最近、学校サボってるみたいだから、私が代筆しないとって思って」
「そう」
彼は丘を下ったあたりで歩を止めた。心なしか、全体的な彼の挙動がゆっくりになった気がした。
「小林さん、お願いがあるんだけど」
彼は静かに言った。
「何?」
「どうか、ロマンを否定しないでほしい」
彼は真顔だ。空は宵闇がそこまで迫っている。私が返答するより早く、彼は言った。
「もう一つだけお願い。僕の名前を呼んでほしい」
「えっ」
「意味なんてないんだ。お友達にも会わせてあげたいし」
「……?」
意味がわからない。彼の言っている、意味を全く解せない。しかし、ここは従った方が良さそうだ。私は若干震える唇で、
「桐崎くん」
そう言った瞬間に、気づいた。気づいてしまった。後ずさりした瞬間に何か、柔らかいものを踏んだ。足を伝って全身に走る、嫌な感触—―気づかなければ、良かった。
つまるところ、彼のロマン、すなわち夏菜子は、ここに埋められている。
きりさきくん。切り裂きくん。
「桐崎くん、あなた、なんてこと……!」
私がようやく絞り出した声に、しかし彼は寂しげな表情を浮かべていた。
「ロマンだと、誰も思ってくれない。わかってくれないんだ。大橋夏菜子もまた、ロマンを笑った」
ということは、彼が言うことの文脈を汲み取るならば、
「まさか、嘘でしょ!?」
被害者は夏菜子一人ではないということになる。
「小林さんは、どう思う?」
この異常な状況下において、彼はどこまでも寂しそうだ。それがどうしても、私には理解できない。
殺人鬼なら、殺人鬼らしく下品に笑ったりしてよ!
その目、憂いを宿した優しい目。駄目だ……私もどうかしてる。
友人の亡骸の上で、私は、堕ちた。あっけなく、きりさきくんに、恋をしたのだ。