第六話 噂

「何者、か」

私の言葉を吟味するように彼は反芻した。

「さぁ、何なんだろうね」
「……ごめん」
「なんで謝るの」
「いや、なんとなく」
「智恵美は、『なんとなく』が多いよね」
「……」

桐崎くんは、私の、彼氏だ。


「ちょっとー、智恵美ったら」

美恵に声をかけられて、私は自分が授業が終わってもボーっと前を見ていたことに気付いた。

「最近、智恵美ヘンだよ? なんか悩みでもあるの?」
「ん……」

私は、美恵の心遣いに応えられず、「いや、何でもない」と席を立った。

「そう。じゃあさ、夏休み合宿のミーティング、今日の五限の後だから、サークルボックスに来てね!」
「合宿?」
「何さー、とぼけちゃって。智恵美も行くって言ってたじゃん。か・れ・し・と!」
「えっ!?」

美恵はいたずらっぽく笑い、私に人差し指を向けて

「河口湖! 二泊三日でもうペンションおさえたからね。欠席は許さんぞ」
「あ、うん」

児童文化部。私の所属するサークルだ。児童文学の研究というのが建前で、実質飲みサークルと化している。元々、入りたくて入ったというよりも、新歓コンパで隣の席になった先輩に誘われるまま入ったサークルだった。

美恵は積極的だ。河口湖まで行って、児童文学の書籍の読み合わせをするという。美恵は文学部で、中でも専攻が児童文学なのだから、誰よりも純粋にサークルに関わっていると言ってよいだろう。

「じゃあ、また後でね」

颯爽と美恵は去っていった。それを見計らっていたのか、直後に私に声をかけてきた人がいた。

「あ、藤城先輩」
「こんにちは、小林さん。ちゃんと眠れてる?」
「あ、はい」
「顔色、良くないよ」

藤城先輩は私と同じ心理学科の二年生だ。背が高く、すらりとした体形で、そこそこ整った顔立ちをしている。女子にもそこそこ人気らしいのは、私も知っている。児童文化部の所属でもある。

「大丈夫です。先輩も、合宿、行くんですか?」
「行くっていうか、まぁ、幹事だからね」
「ごめんなさい、私、全然知らなくて」
「そうだろうと思ったよ。この前のミーティングも、心ここにあらずって感じだったもんね」
「そう、ですか。すみません」

藤城先輩は笑った。

「何も謝ることじゃないよ。体調整えて。もうすぐ前期の試験だし」
「はい」
「ところでさ」

ここで、急に藤城先輩が声をひそめた。まるで私にだけ聞こえるように。

「君のボーイフレンドのことなんだけど」
「桐崎くんですか?」
「ああ。妙な噂を聞いてね」

私は、崖から突き落とされるような寒気を覚えた。それでも、戸惑いを隠そうと、拳をぐっと握って、

「噂、ですか」

とだけ返した。

藤城先輩は深刻な表情で、私にこんなことを言った。

「この前、立川駅のルミネで、他の女子と歩いてたんだって」

―――――え?

「文学部の田代久美子。知ってる?」
「いえ……」
「こんなこと、伝えちゃって悪いかなって思ったんだけど、でも、事実だからって思ってさ」
「……」
「傷は浅いうちに処理したほうがいいよ」

藤城先輩の言うところはつまり、『別れた方が良い』ということだろうか。

いや、そんな伝聞だけで彼のことを信じられなくなるほど、私の想いは薄いのか?

……ちょっと待て。そもそも私は、桐崎くんの何を『信じて』いるんだろう。

どうしよう、わからない。

「じゃあ、またサークルでね。元気出しなよ」

藤城先輩は何事もなかったかのように去っていった。その後姿を見送ったのち、私の胸にはどうしようもない虚無感が飛来して、近くのベンチにふらふらと寄ってそのまま座り込んでしまった。

うだうだ考えるより先に、指が動いていた。こんなことしたってどうしようもないのに。わかっていても、動かずにいられない時が、誰にだってある。私だって例外じゃない。恐らくは三限の授業中であろう彼のスマホに、一言、こうLINEした。

「桐崎くんに、変な噂が立ってるよ」

そうだ、私だってとんだ悪者だ。彼がどんな顔をするのか、知りたいと思ってしまった。驚くかな、戸惑うかな、怒るかな。そのどれも、私は、……見たい。桐崎くんのすべてを知りたい。こんな感情、生まれて初めてだ。

己の身勝手さに体が震える。夏だというのに、私は冷や汗をかいていた。

第七話 ディアー