第十一五話 誘拐犯と脱獄犯

外はとうに日も暮れ、空は闇に包まれていた。センターの前からでも、星は確かに見えるが、佳恵が、いや裕司が求めるのはこんな程度の星空ではない。

あの日観た、降り注がんばかりの星々。

もう一度、一緒に見たかった――星見ヶ丘の、景色。

「行っておいで」

北野が、自分の車を準備してくれた。鍵をそっと佳恵に手渡す。

「余計なことは何も気にしなくていい。今、行くべき時でしょ」
「ありがとうございます」
「気をつけていってらっしゃい」

真奈美が力強く言ってくれた。

背中を大きく押された佳恵は、裕司の手を引いて、車に乗り込んだ。

「行ってきます」


東京には星がないと、君は言っていたね。そんなことはないよ。そんなこと、決してないんだ。星はいつだって、僕らを見ている。僕らの日々には、いつもその輝きが添えられていたんだ。

君の命は、燃えて散った。美しい輝きを放って、僕の心をひどく照らした。そう、あまりにも君は、僕に希望を与えすぎたんだ。そのことを感謝しこそすれ、決して恨んだりしないよ。ただ、感謝してもしきれない。そして、この想いを伝えることはもう、できないんだね。君はもう、この世界のどこにもいないから。


門限が午後七時。消灯は午後九時。そのため、裕司自身、しばらくといってはあまりに長い時間、星空を見ていなかった。星を見ないことで、あの子のことを心の奥底に封印してきたのだ。

しかし、今なら。今だからこそ。


佳恵は深呼吸してから、アクセルを踏んだ。ワイン色のベリーサが、軽やかに走り出す。

流星を、追いかけて。

二人の小さな旅が始まった。


「行っちゃいましたねー」

真奈美と北野は車が見えなくなるまでセンターの前に立っていた。

「あとは、ほら。若い二人に任せて」
「所長。誤解を招きますよ」
「あれ、宇部さん知らないの? この地球はね、勘違いの連鎖で廻っているんだよ」

真奈美が苦笑する。北野は変わらず飄々と、

「さて、彼らを守るのが僕らの役目だ。誘拐犯と脱獄犯の、旅路の無事を祈ろう」

そう言って、夜空を見上げた。


街中では看板のネオンサインがギラギラと、助手席の裕司の横顔を浮かび上がらせた。繁華街を抜けると、すぐに閑静な住宅街が広がる。道路を、中央線が並走していたが、しばらく行くと、踏切に面した。

甲高い音を立ててバーが降りてくる。規則的な警告音が、二人の耳にやけに響いた。目の前を、快速電車が通過していく。あまりに速くて、行き先は見えなかった。

みんな、目的地があるのだ。帰るべき場所を、持っているのだ。

それはきっと、裕司も同じなんだろう。

戻るべき場所が、彼にもある。

それこそが、佳恵が今、アクセルを踏みハンドルを握りながら、まっすぐ前を向いている理由だ。鼓動が跳ね上がっていた。抑える必要もないと思った。

だんだんと街灯が少なくなってくる。仄暗い道にさしかかり、佳恵のハンドルを握る手に力が入る。ライトをハイビームに切り替え、佳恵は車を走らせた。

ふいに、裕司が車内のカーナビなどのアクセサリー類をいじり始めた。

「ラジオですか?」

佳恵が問うと、裕司は頷いた。

「FM東京か、ハマラジが入るはずです。この時間なら、リクエストベストとかかな」

裕司はラジオの周波数を86.6MHzに合わせた。陽気な男性のパーソナリティーがリスナーのリクエストメールを読み上げているのが聞こえてきた。

「お届けしたのは、ポルノグラフィティで『ミュージックアワー』でした! さて、次のリクエスト行くよ! ラジオネーム『歯ぎしりマスター』からの魂のリクエストは、おおっと、これもまた懐かしい。BUMP OF CHICKENで『天体観測』!」

前奏が車内に響き渡る。佳恵は、長く息を吐き、

「おあつらえ向き過ぎでしょ……」

鼻をすすりながら、呟いた。

裕司は目を閉じて、曲に聴き入っているようだった。

曲が終わると、パーソナリティーの明るい語り口で、

「続いての魂のリクエストは……」

と、番組は続いていく。別のアーティストのポップスが流れても、佳恵の脳裏には『天体観測』のサビのメロディーが焼き付いて離れなかった。

車は坂道を登って、都内唯一の環状交差点に辿り着く。そこは、『耳をすませば』という映画の舞台とされていて、クライマックスシーンで主人公が想い人からプロポーズされるという場所だ。

車を停めて、佳恵は鼻をかんだ。そして長く息を吐くと、エンジンを切った。裕司は隣でずっと無言で俯いている。

「着きましたよ」
「……」
「先輩?」
「……」
「先輩――」

呼びかけて、佳恵はハッとした。裕司は、必死に呼吸を整えているのだ。胸に手をあて、唇を少しだけ開き、それをかすかに震わせながら。

……彼は、沙織がいなくなってから、ずっと独りで影を抱えて、幻覚と現実の狭間で生きてきた。

彼の認識を支配するモノクロームの世界を、今、あの日と同じ星々の輝きが彩ろうとしている。

それがどうして、怖くないわけがあるだろうか。

――それでも、星空はもう、星見ヶ丘の景色はもう、見上げればそこに。

裕司は車を降り、深く息を飲み込み、思い切って夜空を見上げた。

第十一六話 天体観測