最終話 添え星

裕司の体を懸命に抱きしめる佳恵。彼女もまた、泣いていた。たぶん、いや絶対、一生かかっても沙織には敵わないのだろう。佳恵は、沙織の代わりにはなり得ない。

しかし、沙織にできないこと、つまり佳恵にしかできないことがある。それは、こうして星の光を一緒に観て、「今とこれから」を生き、想いを繋いでいくことだ。

ひとしきり泣いた裕司は、顔を手で拭くと、佳恵をまっすぐ見て、

「……ありがとう」

そう、はっきりとした口調で言った。佳恵は頷き、

「ここの近くに、喫茶店があるんです。行きませんか」

「星見ヶ丘」の近くには環状交差点があり、その傍らに一軒、小さな喫茶店があった。壮年のマスターが一人で切り盛りしているようで、先客がちらほらといた。店内に入ると、一番奥の席を案内された。間接照明だけの明かりで、落ち着いた空間となっている。BGMはオルゴールで、ジブリ映画のテーマソングが流れていた。

そこで佳恵はマンデリンを注文したが、裕司は頼むのを躊躇した。

「どうしたんですか? 喉、渇きませんか」
「いや、この時間にカフェイン摂ったら、眠れなくなるから……」
「そうですか」
「眠剤も、飲んでもすぐに効かないんだ。一時間はかかる」

その言葉に、佳恵はこんなことを言い出した。

「……今日くらい、眠らなくてもいいんじゃないですか」
「えっ」

裕司は困った表情になる。

「でも、眠らないと叱られる」
「誰にですか?」
「……主治医に」

佳恵は首をゆっくりと横に振った。

「ここは、自由です」

自由。それはつまり、

「眠りたかったら眠ればいいし、起きていたければ、起きていていいんです」

自分で自分のことを決めてよいということだ。

「先輩、今日はどうしたいですか」
「……」

裕司はしばし思案してから、

「……眠りたくは、ないな」

そう。こんな星の綺麗な夜に、21時に寝るだなんて、もったいない。

「コロンビアをください」

マスターは静かに「はい」とだけ言った。裕司と佳恵の会話を聞いていたのか聞いていないのか定かではないが、この客との距離感がちょうどいい。

それからしばらく、二人は無言だった。沈黙はしかし、とても心地よかった。多くを語らずとも、わかりあえるものが、そこには存在していたから。

やがて、マンデリンとコロンビアが運ばれてきて、香ばしいかおりが二人の嗅覚を刺激する。

裕司は思わず深呼吸した。それを見た佳恵がくすっと笑う。裕司は、

「こんな場所、しばらく来ていなかったから」

と言った。その通りなのだ。コーヒーはずっとインスタントだったし、こんなおしゃれな空間とは無縁だったし、何よりもいつも監視されて生活していたから、「自由」の概念が彼の中でいつの間にか消えてしまっていた。

しかし、突然の嵐のように佳恵がやってきて、星見ヶ丘で星に打たれて、今、こうして淹れたてのコーヒーを飲んでいる。

――まるで夢を見ているようだ……。

「夢じゃないですよ」

裕司の胸のうちを見透かしたかのように、コーヒーミルクをかき混ぜながら佳恵は言う。

「ちゃんとした現実です。先輩が今生きている、これからを生きていく、現実です」

そうなのだ。裕司は、これからも生きていく。そのことを責める『声』もあった。だってあの子にはもう、今とこれからがないから。自分だけが生きていくことになってしまったから、そう思ってきた。

しかし、今日わかったことがある。生きていくということは、燃えて散る星の光を目に焼き付け、その明かりを頼りに歩き続けることなのだ。つまり、彼の歩む道を、いつもあの子が照らしているのだ。

コーヒーを口に運ぶ。芳しい香り。穏やかな空気。それもすべて、現実を生きているからこそ感じられるものだ。

ありきたりな表現かもしれないが、あの子は、本当に星になったんだ。星になって、自分の生きるべき道筋を、空からずっと導いていてくれた。あの子の光を道しるべとして、これからも生きていく。生きていかなければならない。いや……生きていきたい。

「山岡さん」

裕司は佳恵と視線を合わせ、両のこぶしをぎゅっと握った。

「……ありがとう。本当に、ありがとう。僕、きっと長い夢を見ていたんだ。長いこと星空を観ることもできなくて、夢の中で生きざるをえなかった」
「先輩……」
「あの子は確かに、僕の傷だ。でも、それは一生ふさがってほしくない傷なんだ。僕は、この傷と一緒に生きていくよ。痛みは、生きている証拠だから」

それを聞いた佳恵は深く頷く。そして、彼女もまた意を決したような表情で応じた。

「私も、決めました」
「えっ」
「先輩、覚悟して聞いてください」
「……」

佳恵のまっすぐな瞳に、裕司は思わず引き込まれた。

「もう、私、後悔はしたくないから」

佳恵はふーっと息を長く吐いてから、一回首を縦に振った。

「先輩の人生に、寄り添わせてください。一緒に、泣き笑いさせてください。沙織の代わりじゃありません。私は、沙織にはなれない。私は私以外にはなれませんから。でも、私にしかできないことも、きっとあるんです。それは、先輩の今とこれからに、寄り添っていくことです」

「山岡さん……」
「先輩のこれからに、私は寄り添います」

それは、告白というには不器用でぎこちない、しかしとてもあたたかい、そんな言葉だった。

人は、生きていく。過ちや傷とともに。そして星々はきっと知っている、それらはすべて、愛すべきものであると。そのことを人々に伝えるために、煌めき続けている。

どこまでも優しい時間が流れていた。二人は、静かに微笑みあった。


東京にも綺麗な星空が見える場所があってね。つけられた地名をそのまま使うのは野暮だから、僕たちは「星見ヶ丘」って呼んでる。厨二っぽい? 確かに、そうかもね。

願いが叶うならば、もう一度見せてあげたかった、星見ヶ丘の夜空を。

でも、他でもない、君自身が星になったんだね。だから毎晩、僕らは逢えるんだ。どこにいたって、一緒なんだよ。そのことがもう、どうしようもなく嬉しいから、僕は生きていく。生きて生きて、いつか星になる日が来たら、君の添え星になろう。


「えええええっ!?」

北野の目の前に差し出された、数枚の紙が舞い踊る。

「タクシー、ユニクロ、スタバ、喫茶店!? って、ちょっと山岡さーん!」

領収証の山に北野が頭を抱えたのは、また別の日の話。

おしまい