第十四話 人を想う

午後六時を回ってから、相談対応を終えた真奈美が事務室に戻ってきた。

「あら、お客様?」

と言ってからすぐに、

「……じゃ、ないわね」

真奈美の感の鋭さは、臨床心理士であるからというよりも天性の才能だろう。つかつかと佳恵に接近すると、

「はい、どういうことか説明して」
「え、えっと……」

そこに北野も参戦して、

「あ、所長的にもソコ聞きたいな、うん」
「えっと……先輩です」

目をぱちくりさせる北野と真奈美。

「犬伏さんは、高校時代の、私の先輩です」
「へぇ!」

北野が感嘆の声をあげる。

「いやぁ、世間は狭いねぇ。感動の再会ってやつ?」
「何言ってるんですか」

調子づく北野の言葉を遮るように、真奈美は言った。

「クライエントと私的な関係のあるカウンセラーが、どうしてカウンセリングにおいてラポール(信頼関係)を築くことができるんです? クライエントの権利侵害にもなりますよ」

厳しいが、間違ったことは言っていない。

「佳恵ちゃん、自分が何しているかわかってるの」
「はい……」
「素晴らしいことよ」
「えっ?」

佳恵は驚きを隠せない。

「どういうことですか?」

真奈美は人差し指を佳恵に向けた。

「プロとしては失格。ただ、人としてはきっといいことをしているの」
「いいこと?」
「忘れちゃった? ウチの方針」
「あっ」

『寄り添うことは、ともに泣き笑うことです』。

真奈美はウィンクした。

「私、思うの。色々な人の相談に乗っていると、『寄り添う』なんて簡単じゃないって。でも、だからこそ、寄り添おうとすること自体が尊いんだって」
「真奈美さん……」

北野は、うんうん、と腕組みして「美しきかな」と頷いている。しかし加えてこうボヤいた。

「まぁでも、病院から電話きちゃったしなぁ」
「佳恵ちゃんの駒春日での演技はバレバレだったってことよね。それでも今、彼がここにいるってことは……」

真奈美の指摘に、北野は

「あ……じゃあ、あの病院のソーシャルワーカーも、捨てたもんじゃないね」

と頷いた。

「あの」

佳恵は意を決し、自分が臨床心理士を目指すことになった理由を北野と真奈美に話し始めた。「すただす」の仲間のこと。かつて裕司に片思いしていたこと。……沙織のこと。

二人は時折頷きながら、しっかりと話を傾聴してくれた。裕司は隣でずっと黙っている。

「でも、まさか先輩が入院していたなんて、知りませんでした」
「連絡は取らなかったの?」

真奈美の問いに、佳恵は目を伏せた。

「取れませんでした。今思えばきっと……病院が通信と面会を制限していたんだと思います。それで、私も大学生になって、だんだんと『すただす』のことも忘れていって。……嫌になっちゃいますよね。確かに心理学では『人間は忘却によって自分を守る』そうですけど、でも、本当は忘れちゃいけなかったのに」
「自分を責めないことね」

真奈美は、臨床心理士の先輩としてというよりも、一介の人間としてそう言った。

「『偲ぶ』って字があるでしょ。人を思うって書くの。時々でいいから、それこそ流星群のときとかに、その子のことを思い出してあげれば、いいんじゃないかな」

「真奈美さん……」
「宇部さん、金八先生みたい」

北野の茶化しに、真奈美はあきれた表情になった。

「佳恵ちゃんには通じないネタだと思いますよ」
「そう? 腐ったミカンとか知らない? 名作だよ?」

すると突然、裕司がソファから立ち上がって、

「……見つけなきゃ」

そう、ポツリと言った。消え入りそうにかすれた声で。

「見つけなきゃ、また失ってしまう」
「先輩?」
「これ以上……失いたくないんだ」

鬼気迫る裕司の表情に、佳恵は息を飲んだ。

裕司はまるでスイッチの入った人形のように、

「どうしてだ?」

うめくようにしゃべり出した。両手で頭を抱えながら抑揚のない声である。

「どうしてあの日、僕はあの子に流星群を見せてあげられなかったんだろう。季節は次々去っていく。どうしてだ? 僕が、僕だけが置いていかれるのは、どうして?」
「先輩、落ち着いてください」

やがて裕司の無機質な声が重たく、悲痛の色を帯びていく。

「この世界のどこにも、あの子がいない。そんなこと、どうして認められるんだ。偉い先生は言うよ、傷は捨て置けと。だけどあの子は僕にとっての傷なのか? 違うだろう、違うだろう……どうして僕は、あの子のあんな……あんなちっぽけな願いすら、叶えてやれなかったんだ」
「先輩……!」
「どうすればいい、今更、何をどうすれば……」

佳恵は堪らなくなって裕司を抱きしめた。裕司は目を剝き、

「放せ……」

と威嚇するが、それでも、佳恵は放そうとしない。しがみつくように精一杯、いや半ば無理やり裕司に抱きしめる。

「先輩、お願いです。こっち見てください」
「……」
「先輩、お願いです」

佳恵はこみ上げる想いを必死にこらえ、

「行きましょう。星、観に行きましょう」

そう言って、裕司の目をまっすぐに見た。

第十五話 誘拐犯と脱獄犯 へつづく