第二章 要求

僕の所属する病棟では毎日のようにケースカンファレンスと呼ばれる、検討会議が開かれる。ここは開放病棟ではあるが、看護師たちは患者たちの管理と監視に余念がない。

「113号室の船堀さん、昨夜も不眠で、頓服をもらいに来ました。ロヒプノールを0.5mg出しています」
「このところ続いていますね。今日また訴えがあったら、就寝前の処方を変えましょうか」
「108号室の横山さんは、明後日退院でしたっけ。お迎えは、ご家族が?」

ケースカンファレンスは僕のような医師のほか、看護師、薬剤師、看護助手、ソーシャルワーカー、作業療法士などの多職種が連携して行われる。

「森下先生、115号室に新規入院の篠崎さん、入院形態は何でしたっけ」
「医療保護入院です」
「そうですか」

僕の胸がちくりと痛む。篠崎隼人の入院は僕の判断と家族の同意を根拠とした強制的な形態がとられた。これを医療保護入院という。しかし、彼は自らの意思で病院までやってきたのだし、診察も彼は特に拒まなかったし、ましてや暴れたりなどはまったくなかった。彼に入院の意思がなかったかと問われれば、それは限りなく黒に近いグレーだ。

僕は自分の身勝手さに冷汗をかいていた。ただ単に、「もっと近くで彼を知りたい」という己の欲求のために、彼を、自分の意思で退院できない医療保護入院とした。こんなことが明るみに出れば、僕の医師人生はおしまいだ。

どうしてこんなことをしたのか、僕は自分でもよくわからない。ただ、衝動と畏怖のままに、そのような行動に出てしまったのだった。そんな僕の浅はかさを知ってか知らずか、彼はそれからの日々、病棟では極めて行儀正しく振舞った。人に会えば挨拶をするし、食事も残さず好き嫌いせずに食べるし、入浴や就寝時間もきちんと守った。それゆえ、看護師からの評判も悪くなかった。

しかし、そんな彼が唯一抵抗したのが、肝心の服薬だった。なぜ飲みたくないのかと問うと、彼は作業療法で作ったという折り紙のツルを羽ばたかせる仕草をしながら、「あれを飲むと命令が聞こえにくくなるから」とのことだった。命令がないとどんな気分かとも訊いた。すると彼は一言、

「寂しいです」

と答えた。

患者の抱く幻聴や妄想などは、できれば無いほうがいいとずっと僕は考えていた。そんな価値観や常識に、大きなヒビを入れられた気分だった。ランパトカナルからの命令がないと、彼は寂しい思いをするのだ。何が正しくて、何をすべきなのか、僕にはわからなくなっていた。だから、先輩の医師から

「森下先生、アドヒアランスを向上させるのも医師の役目でしょう」

と注意を促されることもあったが、僕はアドヒアランス、つまり患者の積極的な服薬遵守だけがよき道だとはどうしても思えなかった。

ただ、日々静かにデイルームで過ごす彼の姿を見るにつけ、罪悪感が募った。罪の意識を持ちながら、過ちを過ちとわかっていながら、改められない自分の弱さに、僕はすっかり飲み込まれていたのだ。

季節ばかりが過ぎてゆき、僕の中に虚しさが積もっていった。それの処し方を知らないまま、僕は表面上では淡々と職務に従事した。そうするしかなかった。


院内の中庭の桜の木の枝に若葉が顔を出した頃になって、彼はようやく僕に一つの要求をした。

「先生。俺、月が見たいです」

入院中は面談室と呼ばれる部屋で、医師は患者との面談を行う。そこで彼は、静かな、しかしどこか懇願するような口調で続ける。

「世界にはあまりにも悲しみが溢れています。俺がここに居続ける限り」
「それと月は、どう関係しますか」
「ランパトカナルは、月から来て月へ還ります」

僕は思わず、ルナティックという言葉が月に由来することを考えてしまった。それは一般的には「狂気」などと訳されるが、そんな陳腐な表現を彼にぶつけることは、僕はしたくなかった。

「じゃあ、月、観ましょうか」

僕の返答に、彼は柔らかく微笑む。

「いつか、月のよく見える場所で散歩しましょう」

彼は厳かな雰囲気すらまとって、ゆっくりと一回頷いた。

第三章 手紙 へ続く