第三章 手紙

精神科医療の一環で、作業療法というものがある。革細工や塗り絵、編み物などの作業を通じて患者の精神心理機能の改善を目指す治療法のひとつだ。これを拒む患者は今まであまり見たことがなかったが、小川朱音という若い女性患者は、これをひどく嫌がった。理由を尋ねたところ、「塗り絵は子どもだましみたいだし、編み物は手が震えるから苦手だし、革細工は作ってもどうせバザーの売り物にされてしまうから」だそうだ。主治医としては、できれば作業療法に参加してほしいところだったが、そういう理由なら強制はできない。その代わり、何がしたいかと訊くと、彼女は「ノートとペンがあればいいです」と答えた。先端の尖った硬いものは禁止されているのでクレパスならいいですよ、と伝えた。一体何を書くのかと問う前に、彼女のほうから「詩を書きます」という恥ずかしげな告白があった。

この科にやってくる人は、表現活動を好む傾向が強い気がする。自分が統計を取ったわけではないが、歴史に残る画家の中には、ゴッホやムンクなど精神疾患の当事者もいる。そこまで著名にならずとも、苦しみの消化・昇華としてなにがしかの活動を行うことはいいことだと思う。


病棟の鍵がかかるのが午後七時、消灯が午後九時。ゆえに夜空に浮かぶ月を、彼はもう何か月も見ていなかった。そのことは僕も認識していたが、しかし彼の申し出を僕は許可しなかった。ここのところ彼は「命令」されることもなく、それ故にたまに看護師などに「寂しい」旨を伝えていたようだが、僕との面談では至って穏やかで、言動も現実検討能力もしっかりとしており、なぜこの場所にいるのかわからないほどだった。

だから、なおさら僕は彼に月を見せることを拒んだ。彼に月を見せたら、またランパトカナルとやらに囚われてしまうだろうから。

矛盾していると自分でも思う。彼をずっとこの病棟の中で見守りたいと思う一方で、彼の病的な苦悩を除去したいという思いが、僕の中でいまだにせめぎ合っていた。

口約束をしておきながら、それをすでに僕は反故にするつもりでいる。なんと不誠実なのだろうか。

「先生、詩を書くなんて、私のこと『痛い』とか思ってるでしょう」

小川朱音には、やや被害的などころがある。

「そんなことないですよ。誰かに対してそんな失礼な表現は用いたくありません」
「そ。じゃあ、私の詩集ができたら、この病棟に寄付します」
「そうですか」

僕の興味は目の前の患者にではなく、あの日以来、どこかで常に彼に向いているように思う。もしかしたらそれは医師としてプロフェッショナル失格なのかもしれない。

この日、僕はいつも通り診察室で小川朱音の電子カルテをパソコンに記入していた。

「では、処方は変えずにおきましょう。夜は眠れていますか?」

この問いかけに、彼女はため息をついた。

「先生は、九時になんて眠れますか?」
「質問に質問で返さないでください」
「ただの愚痴です」

僕は二の句が継げずに、気まずさから逃れるように窓の外を見た。風がやや強く吹いている。真新しい芝が、ゆらゆらと揺れていた。


桜が咲くのも近いのだろう、緩やかな暖かさが空気を支配し始めている。この時分は調子を崩す人が多い。あらゆる命が蠢きだすのと共鳴でもするのだろうか、まるで芽吹きのように時として力強く、病む人々は「症状」を呈する。

僕の胸元の医療用PHSが鳴った。焦ったような声色で看護師がこう話した。

「森下先生、至急、デイルームまで来てください」
「どうしましたか」
「篠崎さんが……」

僕に青白い悪寒が走った。ほとんどそれは、直感の類だった。


デイルームに駆け込んだ僕の目に飛び込んできたのは、泣き崩れる高齢の女性患者と、鬼のような形相で立ち尽くす篠崎隼人の姿だった。

「何があったんですか」

僕は努めて冷静に問いかけた。彼の手には、破れた紙切れが握られている。

「この人が、私のノートを破きました」

しゃくりあげながら、女性がそう僕に訴えた。

「いきなりです。いきなりこの人が寄ってきて、乱暴に破きました」
「なぜ、そんなことを?」

僕は彼に問う。しかし、彼は僕を睨みつけて、

「なぜ、人を殺してはいけないかわかりますか」

逆に質問をしてきた。

「法律にも、モラルにも反するからではないでしょうか」
「違う」

彼は、紙をぐしゃりと握りつぶした。

「人が人を裁いてはならないのと同じです。侵襲のライセンスは、言い訳に過ぎない。俺は俺の生を生きているだけなのに、この人はそれを侵した」

どういう、意味だろう。

「何があったのか、説明していただけますか」

僕が女性を促すと、彼女はふるふると首を横に振った。

「孫に手紙を書いていたら、急に」
「手紙?」
「ええ。この春、高校の入学式だったの」

僕は思わず唾を飲んだ。自分の記憶が正しければ、この女性に孫はいない。女性は泣き顔を手で拭い、

「先生。この人、私は嫌い」

そう訴えるが、僕は彼に釘付けになった。彼のこんな表情は、初めて見たからだ。

「篠崎さん。苦しいですか」
「そんなわけない。俺には課された使命があるんだ」
「ランパトカナルにですか」
「言わずもがなです」
「面談室へ、行きませんか。少し落ち着きましょう」
「俺が悪いんじゃない」
「そうですね」

彼は紙片をパラパラと床に撒いた。よく見ると、破られたノートにはびっしりと「死ね」「殺す」といった言葉が呪詛のように書かれていた。

「人が人を殺してはならない。侵してはならない。裁いてはならない!」

彼の目がギロリと僕を射る──なんと美しい光を宿した瞳だろう。僕は感じた、ずっとこうして……いや、こうされていたいと。

「面談、しましょう。静かな場所で話を聞きましょう」

僕の申し出に、彼はその鋭い視線を面談室へと向けた。

「あの、狭い部屋ですか」
「ええ。落ち着けると思います」
「……わかりました」

面談室に招き入れると、僕は彼に座るよう促した。しかし彼は、それを固辞した。どうしてかと問うても、彼は首を横に振るばかりだ。

「どうして、あの方の手紙を破いたりしたんですか」
「愚問です」

彼はぴしゃりと言い放った。

「俺はすべての人の命を抱きしめるんだ。命は、ランパトカナルの形をしているから」
「それは、あの女性が命を軽視するような表現を書いていたことと関係しますか」
「命は、奪われてはならない。全うして、月に還るものだ」

彼の、痛々しいほどに純朴な想いに触れるにつけ、僕は気持ちがざあっと洗われるような感覚に陥る。彼が他の患者と一線を画すのは、こういう部分なのかもしれなかった。

それからのことは、誰にどう説明すれば良いものか自分でもまったくわからなかった。自分でも驚くようなことを僕は行動に移していた。すなわち、彼に歩み寄ると、そのままそっと抱きしめたのである。彼はただ目をぱちくりさせて立ち尽くしていた。僕の腕の中で、確かに呼吸をしている。僕は彼を抱きしめたまま、頷いた。

「あなたは、悪くありません」

彼の表情は、怖くて確認できなかった。ただ、このぬくもりを感じていたい、あわよくば彼にも僕の体温を感じてほしい、そんなことを願っていた。

第四章 悪夢 へ続く