「いい夜だね」
藤城先輩がひたひたと近づいてくる。私は後ずさった。
「星がこんなに綺麗なんだ。そんな恐い顔しないでよ」
ナイフを手元で弄びながら、ニコッと笑う。
「俺の顔に見事に泥を塗ってくれたね」
「何のことですか」
桐崎くんは抑揚のない声で問う。
「トボけないでくれる? 下村から聞いたんだろ」
「……さぁ」
桐崎くんの返答に、藤城先輩は「ザケんな!」と突然、激高した。
「ちょっと痛い目見ないと分かんねぇみたいだな。すましやがって、桐崎。お前ちょっと生意気なんだよ」
「……」
桐崎くんの表情は変わらない。
「どうするつもりですか」
そう桐崎くんは冷静に問う、それが感情を逆なでしないかと私は内心ハラハラした。しかし、藤城先輩は急に声のトーンを落とした。
「……後ろから聞いたぞ。桐崎、お前が心理学科の大橋の行方不明のこと、何か知ってるみたいだな」
私は背筋に冷たいものが流れるような感覚に襲われた。
それでもなお、桐崎くんの表情に変化はない。
「お前、もしかして人殺しなの?」
藤城先輩のストレートな質問は、しかし桐崎くんの動揺を招くことはない。
「え、これ本気のやつ? 何、そんな涼しい顔しちゃって。あはは! お前、とんだサイコ野郎だな」
「……」
「そうだよ、そんな気がしてた! どっか何考えてるのかわかんない奴だってね。まさか本当に人殺しだとはなぁ」
こんな藤城先輩、初めて見た。こんな、下劣な表情。
「まぁ、俺とお前は同じ穴のムジナってことだ。なぁ、こんなシナリオはどうだ? 悪魔のサイコ野郎から、俺はお姫様を助ける正義のヒーロー。サイコ野郎は最期、お姫様にフラれたショックで自殺をするんだ。悪くないだろう? ホラ、何か言えよ!」
桐崎くんは、藤城先輩に畳み掛けるように言葉をぶつけられ、ここへ来てようやく口を開いた。
「そのナイフ、どうやって使うんですか」
「こう使うんだよ!」
言い終えるより早く、藤城先輩が桐崎くんに襲いかかる。咄嗟に桐崎くんは刃から守るため、私を突き飛ばした。痛みよりも、恐怖の方が優った。
悲鳴を上げることができなかった。
刃は空を切り、勢いだけで突進した藤城先輩の手から、ナイフが地面に転がる。
「チィッ!」
瞬転、体勢を崩した藤城先輩がナイフに伸ばした手を、桐崎くんが容赦なく踏みつけた。
鈍い音がする。
「っあああ!」
「うるさい」
のたうち回る藤城先輩。その近くに落ちていたナイフを桐崎くんは拾い上げ、「刃物は正しく使うべきですよ、先輩」と言い放った。
私は息を飲んだ。
月明かりでようやく見えた桐崎くんは、天使のように優しく、またどこか憂いを両目に灯していた。
そして、その表情からは想像もつかない言葉をゆっくりと紡ぐ。
「……僕のシナリオはこうです。想いを寄せていた後輩にフラれたショックで、純朴で哀れな男子大学生が、湖畔で自殺を遂げる」
「!」
藤城先輩が目を剥く。私に、先刻とは比べ物にならない戦慄か走った。
「だ……だめ、桐崎くん、そんなことしたら」
私はどうにか言葉を振り絞る。しかし桐崎くんは、
「智恵美。ちゃんと見ておくんだよ」
私にそう言った。
……それから、何が起きたのか、私にはよく理解ができなかった。
確かにこの目で見たのだ。
手負いの虎のような形相で、藤城先輩が桐崎くんになおも襲いかかる。
スローモーションのようだった。
桐崎くんは流れるような動きで体をひねり、藤城先輩の突撃をかわす。藤城先輩は、勢いあまって水面に突っ込んでいった。
水鳥達が一斉に飛び立った。
激しい音を立てて藤城先輩が、溺れている。
助けなければ、という倫理は私の中で一切機能しなかった。
私は完全なる傍観者、という名の共犯者だった。
やがて音がしなくなる。それを聞き届けた桐崎くんは、ナイフを湖に投げた。
「さようなら」
――それが、この夏の出来事だった。