第十二話 サイコ野郎

「いい夜だね」

藤城先輩がひたひたと近づいてくる。私は後ずさった。

「星がこんなに綺麗なんだ。そんな恐い顔しないでよ」

ナイフを手元で弄びながら、ニコッと笑う。

「俺の顔に見事に泥を塗ってくれたね」
「何のことですか」

桐崎くんは抑揚のない声で問う。

「トボけないでくれる? 下村から聞いたんだろ」
「……さぁ」

桐崎くんの返答に、藤城先輩は「ザケんな!」と突然、激高した。

「ちょっと痛い目見ないと分かんねぇみたいだな。すましやがって、桐崎。お前ちょっと生意気なんだよ」
「……」

桐崎くんの表情は変わらない。

「どうするつもりですか」

そう桐崎くんは冷静に問う、それが感情を逆なでしないかと私は内心ハラハラした。しかし、藤城先輩は急に声のトーンを落とした。

「……後ろから聞いたぞ。桐崎、お前が心理学科の大橋の行方不明のこと、何か知ってるみたいだな」

私は背筋に冷たいものが流れるような感覚に襲われた。

それでもなお、桐崎くんの表情に変化はない。

「お前、もしかして人殺しなの?」

藤城先輩のストレートな質問は、しかし桐崎くんの動揺を招くことはない。

「え、これ本気のやつ? 何、そんな涼しい顔しちゃって。あはは! お前、とんだサイコ野郎だな」
「……」
「そうだよ、そんな気がしてた! どっか何考えてるのかわかんない奴だってね。まさか本当に人殺しだとはなぁ」

こんな藤城先輩、初めて見た。こんな、下劣な表情。

「まぁ、俺とお前は同じ穴のムジナってことだ。なぁ、こんなシナリオはどうだ? 悪魔のサイコ野郎から、俺はお姫様を助ける正義のヒーロー。サイコ野郎は最期、お姫様にフラれたショックで自殺をするんだ。悪くないだろう? ホラ、何か言えよ!」

桐崎くんは、藤城先輩に畳み掛けるように言葉をぶつけられ、ここへ来てようやく口を開いた。

「そのナイフ、どうやって使うんですか」
「こう使うんだよ!」

言い終えるより早く、藤城先輩が桐崎くんに襲いかかる。咄嗟に桐崎くんは刃から守るため、私を突き飛ばした。痛みよりも、恐怖の方が優った。

悲鳴を上げることができなかった。

刃は空を切り、勢いだけで突進した藤城先輩の手から、ナイフが地面に転がる。

「チィッ!」

瞬転、体勢を崩した藤城先輩がナイフに伸ばした手を、桐崎くんが容赦なく踏みつけた。

鈍い音がする。

「っあああ!」

「うるさい」

のたうち回る藤城先輩。その近くに落ちていたナイフを桐崎くんは拾い上げ、「刃物は正しく使うべきですよ、先輩」と言い放った。

私は息を飲んだ。

月明かりでようやく見えた桐崎くんは、天使のように優しく、またどこか憂いを両目に灯していた。

そして、その表情からは想像もつかない言葉をゆっくりと紡ぐ。

「……僕のシナリオはこうです。想いを寄せていた後輩にフラれたショックで、純朴で哀れな男子大学生が、湖畔で自殺を遂げる」
「!」

藤城先輩が目を剥く。私に、先刻とは比べ物にならない戦慄か走った。

「だ……だめ、桐崎くん、そんなことしたら」

私はどうにか言葉を振り絞る。しかし桐崎くんは、

「智恵美。ちゃんと見ておくんだよ」

私にそう言った。


……それから、何が起きたのか、私にはよく理解ができなかった。

確かにこの目で見たのだ。

手負いの虎のような形相で、藤城先輩が桐崎くんになおも襲いかかる。

スローモーションのようだった。

桐崎くんは流れるような動きで体をひねり、藤城先輩の突撃をかわす。藤城先輩は、勢いあまって水面に突っ込んでいった。

水鳥達が一斉に飛び立った。

激しい音を立てて藤城先輩が、溺れている。

助けなければ、という倫理は私の中で一切機能しなかった。

私は完全なる傍観者、という名の共犯者だった。

やがて音がしなくなる。それを聞き届けた桐崎くんは、ナイフを湖に投げた。

「さようなら」

――それが、この夏の出来事だった。

第十三話 身勝手