嫌だ。こんなお別れ、絶対に嫌だ。
私は必死で彼のシャツの腕の部分をつかんだ。
「べ、別にいいの」
声が震える。
「殺人鬼なんかじゃなくていい。むしろ、そんなんじゃないほうがいい。お願い、ごめん、謝るから、『さよなら』なんて言わないで」
桐崎くんは、特段抵抗せず、かといって私の言葉を受け止めるでもなく、私の喚き声を聞いている。
「ね、ごめん。私、どうかしてた。骨がね、見つかって、もうダメかもしれないって思って、不安になっちゃって、だから……」
「だから?」
いつになく、桐崎くんの声色が冷たい。私は一瞬怯んだ。
「だから、『さよなら』なんて言わないで」
「…………」
はたから見れば、よくあるカップルの痴話ゲンカだろう。私も以前は街中でそういう光景を見かけては心のどこかで蔑みの念を抱いてきた。
しかしどうだ。いざ当事者になってしまえば、大切な人から言われるたったの四文字、『さよなら』がこんなにも恐ろしく自分を揺さぶるとは、思ってもみなかった。
なんて、愚かなんだろうか、私は。
あまりに必死だったために、自分でも驚くようなことを、気づいたら私は口走っていた。
「私、桐崎くんのこと、愛してる」
「……」
桐崎くんが自由な左手で、アイスコーヒーを一口飲んで、
「わかった」
とだけ言った。
初めてだった。桐崎くんの怒ったような顔を見たのも、私が桐崎くんに対して必死になったのも……ケンカしたのも。
――思った。気づいたら、こんなにも彼のことが大切な人になっていた。恋ってのは、とんだ劇薬だ。何人もの犠牲の上に、私たちの絆は結ばれている。それを承知で、なおそれを手放すことができない。
嬉しかった。彼と本気でケンカできたことが、どうしようもなく嬉しかった。
二人きりになれる手ごろな場所ということで、カラオケボックスを選んだ。
「せっかくだから、何か歌う?」
私はマイクを彼に渡して、
「私、好きなんだ、ミスチル。中学校の頃から」
「ふーん」
「……今はそんな気分じゃないか」
「いや、智恵美が歌いたいなら歌えばいいんじゃない」
「そうだなぁ。じゃあそうするよ」
タブレットを操作すると、ヒット曲のイントロが流れ出す。流行歌に関心のない桐崎くんも、この曲は知っていたらしく、体をリズムに乗せて揺らし始めた。
二人で寄り添って座って、流行歌を歌う。まるで、どこにでもいる大学生同士のカップルだ。
そっと桐崎くんの方に手をやると、桐崎くんも手を重ねてくれた。
嬉しかった。こんな平穏で幸せな時間が、ずっと続けばいいのに。
曲が終わると、にぎやかなプロモーション映像が流れ出した。私は音量のボリュームをゼロにし、気持ちを整頓するために膝をポンポン、と叩いた。
そして意を決して、「桐崎くん」彼の名を呼んだ。
「うん?」
「もしも、さ。もしもの話だよ? 桐崎くんの言うところの『ロマン』が、私に理解できなかったら、どうしようってずっと思ってた。でも、わかったよ、私には。桐崎くんは『自殺はよくない』って言ってた。その通りだと思う。夏菜子はそれが理解できなかった。何があったのか知らないけど、あの子は死を選んじゃった」
「そうだね」
「桐崎くんが、なんで土いじりが好きなのかもわかったよ。一緒に夏菜子のこと、見に行ってよくわかった。夏菜子、だんだんとディケしてて、ああ、この子、地球に還るんだな、次の命にバトンを渡したんだなって。それって、すごい尊いことなんだよね。それがきっと、『ロマン』なんだよね」
「うん……」
「藤城先輩のことは、きっと『正当防衛』になると思う。だって、襲ってきたのは向こうだし。大丈夫だよ。うん。大丈夫」
私の言葉に少し間を置いて、桐崎くんはこう言った。
「智恵美、何を必死になってるの?」
「それは……」
「僕は別に何も怖くないよ」
桐崎くんの口元が少し緩んだ。
「死は全ての終わりかい? 違うでしょう。今、智恵美も言ってくれた。命の循環こそロマンだ。土には全ての歴史が眠ってる。こんなに尊いことはない。いずれ僕も地球に還れる。それを思うと、胸が温かくなるんだ。死は次の命のきっかけだよ。ロマンは僕にとって、唯一無二の救い。智恵美は、きっとそれを理解してくれたんだね」
圧倒された。桐崎くんがこんなにも自分の思いを語ることは、今までなかったからだ。
確かに、殺人こそ犯していないかもしれないが、桐崎くんはもう十分に、桐崎くんだ。
今度こそ、信じよう。桐崎くんのこと、ありのままに。
だから、ちゃんと聞いておかなければと思った。私はもう迷わない。毅然と、彼に問うた。
「桐崎くん。夏菜子と何があったの?」