第十七話 夏菜子

入学してすぐに夏菜子が声をかけてきたという。積極的な性格だった彼女は、新歓コンパで同じグループだった桐崎くんに一目惚れしたらしい。

告白こそしなかったものの、すぐに連絡先を交換し、LINEなどで会話をしていたという。

桐崎くんにとっては、初めてのガールフレンドだった。どう接したらいいのかわからなかったが、それでも嬉しかったという。

ところが、あっさりと夏菜子は態度を変えた。アルバイト先に好きな人ができたのだ。相手は社会人の数学講師だった。

「ごめんね、桐崎くん」

こうして、手も繋がないうちに、桐崎くんの初恋は終わった。

ところが、夏菜子はその数学講師に遊ばれてしまった。相手からすれば、夏菜子は都合のいい女だったのだろう。 数学講師は、既婚者だったのだ。

「もう、嫌。こんな世の中、大嫌い」

そして再び桐崎くんにコンタクトを取ってきたが、それは心寂しい彼女が最期に選んだ、虚しい選択肢……『誰かに、自分が死ぬ瞬間を見届けてほしい』というものであった。

一方、桐崎くんは桐崎くんで、一度の失恋でとうに心は凍りついていたので、夏菜子が

「今から死ぬから、森林公園の丘まで来て」

と電話をかけてきた時も、まったく同情する余地は持ち合わせていなかった。

「そうなんだ。どうやって死ぬの?」
「百均で買ったの。カッター」
「そんなんじゃ無理だよ、きっと」
「じゃあ、手伝って。私の死体を、埋めてほしい」
「やめなよ。土が穢れる」
「また土の話? 私の生死より土が大事なの?」
「うん」
「桐崎くんは、やっぱり桐崎くんだね」
「それ、褒めてるの?」
「ううん、全然」
「土は命の巡る泉だ。それを、君みたいな小汚い血で汚されては堪らない」
「やっぱり、変なの! 桐崎くん、私、バカだったね。まっすぐ君だけを見てれば良かったよ。全部もう、手遅れだけど」
「構ってほしいなら、そう言えばいいのに。僕は別に否定しないよ。肯定するかどうかも約束はできないけど」
「ううん。桐崎くんには、手伝ってほしいだけ。私が死んだら、『地球に還して』。これは私の、最期のワガママ」
「……」
「土を掘る道具を持ってきて。五限が終わったら、待ってるから!」

まるでデートの約束でもしたかのように明るい声で、夏菜子の電話は切れた。


森林公園の小高い丘の麓で、夏菜子は確かに待っていた。いつものように、少し露出度の高めなスカートを履いて。

「風邪引くよ」

桐崎くんがかけた言葉に、夏菜子は吹き出した。

「これから死ぬのに、風邪とか関係ないし」
「それもそうだね」
「ね。もう一つお願いがあるんだけど」
「いくらでもいいよ、最期なんだし」
「はは……やっぱ、最初に惚れたのは間違いじゃなかったかな」
「お願いって何?」
「これ以上隠し事してもしょうがないから、伝えるよ。あたしね、妊娠してんだ」
「……そう」
「あの人の子ども。堕ろさないと親にバラすって脅されたよ。どこまでも卑劣なイケメンだったなぁ。悔しいけど、顔はめっちゃ好みだった」
「それで?」
「私のせいで、生まれてくるはずだった子が、死んじゃう。だから、私をどうか土には還して、この子と一緒に巡る命にしてほしいんだよね」
「……本気なの」
「うん。桐崎くんにしか、お願いできないから、こんなこと」

夏菜子はニコリと微笑んだ。

「あれ、やだなぁ桐崎くん。泣いてんの?」

そう、桐崎くんの頬を、一筋の涙が伝っていた。

「桐崎くんも人間だね。血も涙も、あるんだね」
「……シャベルなら、持ってきたよ。ホームセンターで買った」
「悪いね。わざわざ」
「こんなことしか、僕はできないけど……君がロマンになるのなら、僕もそれを望むよ」
「あはは!」

あっけらかんと、夏菜子は笑った。

「いいね。『ロマン』ね、桐崎くんらしいよ、まったく」
「……笑うことないじゃない」
「これで、本当にオシマイ。あとは、よろしくね~」

まるでバイトのシフトを代わるだけのようなテンションで、しかし夏菜子は自らの喉元にカッターをあてがうと、そのまま水平に刃を滑らせた。

ああ……。

命が、終わる。

そして、次の糧となる。

彼は倒れ込んだ夏菜子の背中に一度だけ触れると、

「これが……ロマン……!」

無我夢中で穴を掘り始めた。

痙攣を繰り返し、やがて動かなくなった夏菜子。

全てを見ていたのは、散り終えた桜たちだけだった。