すべてを聞いた私は、涙を流しながら、彼の手を握りしめていた。
「何も……何も知らなくて……私。ごめんね」
「どうして智恵美が謝るの」
「だって私、完全に勘違いしてて……夏菜子のことも、全然わかってなかった。そんなことがあったなんて、思いもしなかったんだ」
私は今度こそ自分の浅はかさを痛感した。
夏菜子は、私が想像するよりずっと、苦しんでた。私なんかの想像をはるかに超えた覚悟を決めていた。
「桐崎くんがどうしてあんなに寂しそうな目をしていたのか、ようやくわかったよ」
「智恵美……」
「行こう、桐崎くん」
「え?」
「夏菜子のもとへ」
「行ってどうするの? あの現場はもう乱されてしまったよ。大橋夏菜子はあそこにはいない」
「そうかもしれない。だけど、あそこが確かに、私と君の、始まりの場所だから」
「……」
「ちゃんと、『ケジメ』をつけたいの。私たちの、これからのために」
「……わかった」
私のこの時のこの決断を、誰がどうしてどのように責められようか。
現場にはブルーシートがかけられていて、キープアウトのテープが張り巡らされていた。マスコミと思しき人間たちが忙しなく動き回っている。野次馬も何人かいて、だから私たちもまたそんな物見遊山のように見えたのだろう。ふと、テレビクルーに声をかけられた。
「夕日テレビですけど。この裏の大学生さんですか?」
「あ、えっと……」
私が言い淀んでいると、
「はい。近くでこんな事件が起きて驚いています」
桐崎くんがスラスラと答えた。クルーは桐崎くんに食いついた。
「発見された遺体はこちらの大学の学生の可能性があるそうですよ」
「怖いですね。こんな近くでこんな事件が起きるなんて、信じられません」
桐崎くんはやたら饒舌だ。クルーは色めき立って、カメラマンに指示を出した。
「カメラ、回して。ね、君、今から撮るから今と同じこと言ってくれる?」
「わかりました」
カメラが回り出す。
くるくる、昔ならコマ撮りのフィルムだったんだろうけど、今はなんでもかんでもデジタルなんだろうな。
そういえば、昔、祖父に無声映画を観せてもらったことがある。カタカタと回る映写機の音が、耳に心地よかったのを思い出した。
「怖いですね」
彼のことがもしも映画になったら、どんなエフェクトをかけてやろうか。
「こんな近くでこんな事件が起きるなんて、信じられません」
彼が主人公の映画なんて、きっととてもつまらない。だって、どこにでもいる平々凡々なカップルの物語だもの。
「……と、みんなは言うでしょうが」
……わかってたよ、どこかで。誰よりも君のことをわかっているのは、私だから。
「ロマンは消えない。命が巡る限り。僕はそう信じています」
クルーは怪訝な顔をしたが、プロの勘なのだろうか、そのままカメラを回し続ける。桐崎くんはカメラをまっすぐ見たまま、遂に白状した。
「彼女の願いは叶いかかったのに、それを邪魔した警察に強く抗議します」
……そういえば、『ディケ』ってのは、decayからとって『ディケ』なんだよね。調べたよ、私。ディケには他にも『崩壊』とか『萎靡』とか、そんな意味もあるんだってこともね。
「それから、僕はもう一つ宣言します」
レンズが彼の姿をハッキリと収めている。
「大橋夏菜子を妊娠させて捨てた、グローリー塾西八王子校の数学講師、高梨秀郎への社会的制裁と糾弾を望む」
クルーは驚き、戸惑い、また嬉々として、桐崎くんにインタビューを始めた。
「確かに、マスメディア向けの警察発表には被害者の名前が公表されたけど、まだ一般には公になってないはずですが、どうして『大橋夏菜子』さんの名前を?」
くるくる、流れるのは空の雲? それとも、巡る命のロマンのなせる情景か。
カタカタと、脳裏に蘇る映写機の音。
異変に気づいた他のマスコミも、一斉に桐崎くんにカメラとマイクを向ける。
フラッシュの嵐の中で、彼がとても輝いて見えた。
ああ、いっちゃうんだな。
言ってしまうし、行ってしまうんだな。
そういえば、彼はどんな音楽が好きなんだろうか。
私は大切な人のことを、何一つわかっちゃいなかった。でも、ちゃんとわかったよ。 君が、そういう覚悟を決めてたってこと。
無声映画が流れ出す。カタカタ、カタカタカタカタ、リズミカルな音。
最近、心理学で習ったこと。人間は一生で二百万回の選択をするんだって。
夏菜子の二百万回目は、悲しい選択肢だった。
ああ、そうだ。映画に添えるのはビートルズなんてどうかな? デイトリッパーとか、オブラディオブラダとかさ、明るくていいじゃない。私は好きだよ? 英語は苦手だけど。
「どうして知っているんですか?」
「君、学部と学年は?」
「その宣言の意味は?」
マスコミが彼を質問攻めにする。彼は一度だけ深呼吸すると、瞬くフラッシュの中で、
「智恵美、ごめんね」
そう言って笑った。