彼は私の前からいなくなった。事件は彼の告白によって急展開し、即日、彼は逮捕された。それでも、今も彼は私の彼氏で、大切な人だ。
そういえば、二人の写真を一枚も撮っていないことに、今更になって気づいた。スマホを漁ったが、どこにも彼の姿はない。
世間はクリスマス一色で、街行くカップルを見ては空席になった左手をぎゅっと握りしめる。寂しいとか虚しいとか、そういう感情ともまた違う。なんだろう、あえて言葉で表現するなら、『待ちわびる気持ち』だろうか。
きっと彼は、戻ってくる。あの顔で、あの声で、あの瞳で。
児童文化部で子ども向けのクリスマス会が開かれることになった。毎年恒例らしく、サンタに扮した同期が児童館に来る子どもたちに駄菓子を配り、絵本や紙芝居の読み聞かせをするという。私も美恵の命令で、それに参加させられることになった。
「ねぇ、お姉ちゃん、これ読んで」
子どもが持ってきたのは、『百万回生きたねこ』だった。言わずと知れた名作で、私も内容は知っている。小学校低学年が読むには難しい気がした。
「いいよ。でもどうしてこの本なの?」
「ネコが好きなの!」
「そっか」
九十九万九千九百九十九万回生きても、自分を、世界を愛せなかった猫が、愛するものを知って、そのものの死で初めて失うことの悲しみと本当の愛を知るというストーリー。
はて、桐崎くんは、果たしてどうだったんだろう。
……夏菜子は、どうだったんだろう。
今となっては、もう何も、わからない。
そう、少なくとも今の私には、「わからない」ということがわかる、そんな気がするのだ。
夕方のテレビからもネットのニュースからも、『八王子女子大生死体遺棄事件』の話題がすっかり消え、平穏な日々が戻ってきた。しかし、私は思うのだ。あまりにも大切なことを忘却し続けて成り立っている「日常」とは、本当に平和なんだろうか? と。
私には待つことしかできない。彼が帰ってくるその日を。
約束はしなかった。信じているから。
クリスマスもお正月も忙しなく過ぎ、私はどこにでもいる大学生らしい日常を送っていた。いや、どちらかというと授業よりバイトやサークル優先の、やや出来の悪い学生だったかもしれない。
「彼氏でも作ったら?」
と美恵には言われるし、実際に一度、よく知らないサークル仲間に告白もされたが、丁重にお断りした。
「私には、待つべき人がいるから」
わかっている。桐崎くんの心は、夏菜子に持っていかれた。悔しいけど、それが事実だ。
身勝手で、それ故に魅力的だった、夏菜子。私の何人かいる友達の一人に過ぎなかったはずの、夏菜子。永遠に追いつけない場所で自分からディケに突っ込んだ夏菜子。
……ロマンになった、夏菜子。
遺された者に何か使命があるとしたら、それはたぶん、生きることだ。どんなに無様で不器用で要領が悪くても、歯を時に食いしばって、大切な人を大切にしながら、前に進むことだ。それはつまり、きっと忘却のことだ。思い出というフレームに彼女をはめ込んで、
「いい子だったよね」
「結構かわいかったよね」
「まだ若かったのにね」
などと、めいめい美化をして、モルタルの壁に飾ることだ。
夏菜子、あなたは私が今、踏みしめている地球の一部になったんだね。それはさぞかし、そう、さぞかし、美しいことなんだろうね。それを理解できたのは、桐崎くんだけなんでしょ。悔しいなぁ……あなたが目の前にいたら、引っ叩きたいくらい。
夏菜子の推定一周忌。この年は桜の開花が遅く、まだ満開だった。私は二年生になり、心理学の勉強にもそこそこ力を入れ初めていた。
幸いこの日、雨は降らなかった。五限が終わると、マックスコーヒーとダースチョコをコンビニで買って、夏菜子の眠る、その場所へ向かった。
日が落ちれば、まだ寒さの残る時期だ。季節は非情に巡る。命もまた、容赦なく巡る。私もいつか、その一部になるのだろうか。その日が来たら、私も桐崎くんのロマンになれるのかな。そんなことを考えてしまう。
暗がりを進み、丘の麓に着いた。春の空気が肺を支配する。コーヒーとチョコレートを置いて、手を合わせようとして、やめた。なんだか、違う気がした。
――ねぇ、夏菜子。あなた、ちゃんと地球に還って、幸せなの?
「夏菜子……」
私はこみ上げる感情に肩を震わせた。
「……」
小さくクシャミをした、その刹那。
「大丈夫?」
『その声』で呼ばれて、しかし私は振り向けなかった。
――まさか、だって。
「そんな薄着じゃ、風邪引くよ」
間違いない。彼だ。彼の声だ。
「……!」
「遅くなってごめんね」
幻でも、見ているんだろうか……? 私はかろうじて出せた声で、問いかけた。
「どうして……?」
「それは愚問だよ」
この、飄々としていて、何を考えているのかわからない感じ。
「まさか……」
「……大橋夏菜子が、僕らを逢わせてくれたんだ。再び、この場所で」
「そんな……」
――死んでなお、地球の一部になってなお……夏菜子、あなたは……なんて子なの。私はあなたのこと、やっぱり何一つとしてわかってなかった。
ごめんね。ごめんね夏菜子。
「わ……私……」
声が、手足が、震える。違う、こんなんじゃない。こんな言葉じゃない。伝えるべき言葉を、ずっと伝えたかった言葉を、今こそ伝えなければ。だって、ずっと、『待っていた』んだから。
私は、どんな日も――君のこと、待ってたよ。一日だって忘れたことなんて、なかった。その顔、その声、その瞳。
信じて、待ってたよ。
「……桐崎くん……」
胸がぎゅっと痛くなる。それでも、呼吸を必死に整えようとした。精一杯に強がって、
「随分、遅かったね」
「うん。野暮用でね」
間違いない。間違うはずない。その理由を問うのはナンセンスだ。私が、桐崎くんへの想いが『愛』だと気づいた他に、どんな理由があろう。
「待ってたよ、ずっと」
「だろうね」
実に、桐崎くんらしい受け応えだ。
「女子を待たせるなんて、いいご身分だね」
「だね」
「最近観た映画は?」
「映画館に行けるような身分ではなかったから」
「それもそっか」
「うん」
このやりとりに、懐かしさを通り越し、私は愛おしさすら覚えた。
空には柔らかな月。優しく私たちを見下ろしている。そう、まるですべてを受け入れ還っていった、あの子の笑顔ようだ。
……ロマンなら、ほら、ここにあったよ。
私は、今度こそ勇気を振り絞り、胸元で拳をぎゅっと握ったまま、意を決し振り返った。
「……おかえり」
夜風が吹いて桜を揺らす。狂ったように舞い踊る花びらの中心で、彼は静かに微笑んでいた。
「ただいま、智恵美」
end.