僕が彼の姿を初めて見たのは、朝靄けむる病院の入り口の花壇の近くだった。当直明けで、深い眠りにつくことができなかった僕のぼんやりとした視界に、しかしそれは鮮やかに飛び込んできた。
黒のダウンジャケットにジーンズ姿の中肉中背。一見すると、どこにでもいそうな男子大学生のように見えたが、僕はすぐに彼の「異変」に気づいた。彼はヘッドフォンをして天をじっと見上げていた。右手でピアノを弾くような仕草をしながら、左手にスマートフォンを握っている。僕の直感を決定づけたのは、彼の頬が涙に濡れていたことだった。
冬の朝の淡い光を浴びて、彼の姿は神々しくさえあった。だから思わず、僕は息を飲んだ。
駆けつけてきた看護師が息を切らしながら、僕を急かすように叫ぶ。
「先生! あちらの男性です、急患で……」
「わかりました」
一歩、彼に近寄ろうとして僕はハッとした。彼が明らかに拒絶するような手振りをしたのだ。僕は歩を止めざるを得なかった。
「……何を、聴いているんですか」
そう問いかけても、彼はこちらと目を合わせようとしない。看護師は少し苛ついた様子だ。
「先生、ご家族からのお申し出で、すぐにでも診てほしいと」
「それは、わかっています」
「ではどうして」
僕は看護師の言葉を制止した。
「きっと、大切なときなんでしょう」
「え?」
「儀式、と言ったら大げさかもしれないけれど」
「あの、おっしゃっている意味が……」
「僕にもわかりません」
「……?」
「わかるはずもありません。僕の師が言っていました、『この病に罹患する者は恐ろしく高度な精神の持ち主だ』と」
僕は、今一度彼の姿を確認した。
「僕らのような凡人に、彼の苦悩がほどける訳がない」
やがて、静かな笑い声が聞こえてきた。それは澄んだ、透明感のある響きを持っていた。それが泣き声に変わるのに、そう時間はかからなかった。
「どうしましたか」
僕が今度こそはっきりと声をかけると、ようやく彼はこちらを向いた。
「悲しみを……」
「えっ」
「世界中の悲しみを、俺は背負わなければならないんです」
彼は、明瞭な口調でそう僕に伝えてきた。
「俺がこぼしてしまったら、あの子が泣いてしまう。名前の無い命たちがみんな、違う月を見ているでしょう」
「……」
「悲しいな……ひとつひとつ、全て抱きしめてあげたかった」
それが、白んだ朝の空気に色彩を与えるような言葉を紡ぐ青年、篠崎隼人との出会いだった。