退屈な病棟の中では、しょっちゅう、しょうもない噂が流布される。彼が女性患者のノートを破った様子は瞬く間に広がり、「あいつはやっぱり危ない」という話がひそひそと聞かれるようになった。
別の日のカンファレンスでもそのことが話題となり、病棟の看護師長は「他の患者が不安がるから」という理由で彼を一時的に保護室へ入れることを提案したが、僕がそれを認めなかった。
「実際、篠崎さんの行動の影響で、大島さんは調子を崩されています。他の患者さんたちだって」
大島さんとは、あの高齢の女性患者のことだ。看護師長は続ける。
「頓服薬を求めてくる人は増えています。ほとぼりが冷めるまで、篠崎さん本人のためにも、保護室処遇が適当かと」
「あなたは、自分の矜持を汚されても頭に来ませんか」
「はい?」
「先日の件について、篠崎さんに非があるとは思えません。そもそも、保護室はそういう懲罰的な使い方をする場所ではありません」
「それはわかっています。でも、他の患者さんたちが――」
他の患者さんたち。それはどうも、僕にとってはどうでもいい響きのようだった。
看護師長が何か喚いている。僕は視線を窓の外に移した。若葉がそよそよと風に踊っていた。
すべての命を抱きしめる。ランパトカナルは月から来て月へ還る。光の粒子、シナプスの断片、微弱な季節の裏切り。あるいはいずれでもなく、闇に還るためのあらゆる手段。
僕は彼が語った言葉をメモ帳にしたためて持ち歩いていた。それは誰にも気づかれないよう、白衣のポケットにしまわれていた。さながら彼と秘密を共有しているかのようだった。ほんのりと心地よい背徳の感すらあった。
仕事が終わると、僕は白衣から必ずそれを取り出してスーツの胸ポケットに入れた。そうしていつも、彼とどこかで繋がっているような感覚を持ち続けていた。
いつかの約束どおり、当直の晩、僕は診察するという大義名分で彼を中庭に連れ出した。桜の花が満開に近く、弓張月の月光が冴え冴えと中庭全体を照らしていた。
当然ながら、夜勤帯の看護師たちにはいい顔をされず、何やらコソコソと話す者もいたが、そんなことは気にしなかった。
夜の中庭へ一歩出た彼は、すぐに夜空を見上げた。月を探しているのだろう。僕は北のほうを指さした。
「白道はあちらですよ」
僕は自然と彼の手を引いた。彼の手は冷たかった。彼は僕の手を気にも留めず、月に見とれている。
「綺麗ですね。月も、桜も」
それから、夜は普段、人のいない中庭を彼と二人、黙ったまま歩いた。彼の足取りはしっかりとしていて、それでも僕は彼の手を離すことはなかった。「逃げだしたら困るから」というのはまったくの建前で、彼が今こうしてここにいる、その体温を確かめたかったのだ。この感情に色彩があるとしたら、どんな色だろう。
「先生」
ふいに呼ばれて、僕はハッとした。
「見てください、あそこの桜」
彼は一番遠くにある桜の木を指さした。その刹那、そよ風が吹いて花びらを小さく揺らした。
「桜の木の下には死体が埋まっているという都市伝説がありますが、先生はそれを信じますか」
彼の問いに、僕は一呼吸置いてから、
「聞いたことはあります」
とだけ答えた。彼は長く息を吐いた。
「死体は、埋まっていると思います。昆虫や小動物の」
ああ、なんだ、そういう意味か。僕は胸を撫でおろした。だが、彼はおもむろに僕の手を離すと、両手で顔を覆うような仕草をした。
「どうしました?」
彼は絞り出すような声でこう言った。
「美しすぎるものが、俺を呼んでいるのに」
「え?」
「月夜に泣けないくらいなら、桜の糧になってしまいたい」
「篠崎さん」
僕は彼をどうにかこの世界に引き留めたくて、名前を呼んだ。彼は肩を震わせているものの、泣いているわけではなさそうだ。
「今、悲しいのですか」
彼は首を横に振った。
「では、苦しいですか」
「違います」
僕が次の言葉を口にする前に、矢継ぎ早に彼は続ける。
「怖いんです。ここは美しいものが多すぎる」
夜桜、澄んだ空気、新緑の芝生、そして白い月。すべてが彼を責めているとでもいうのだろうか。
「唯一、醜いものは、俺だ」
自らを醜いと言う、彼こそが美しいと僕は思った。だから、僕は彼の肩に手を置いて伝えた。
「あなたは醜くなんてない」
「気休めはやめてください」
「気休めに聞こえますか」
彼は顔を上げて僕のことをじっと見つめた。望遠鏡でも覗くような仕草で、まるで僕を試すかのように。
ふと、風が凪いだ。月光に照らされた桜の花びらたちが微笑んでいるかのようだ。僕と彼は、しばらくの間、視線を交わしていた。やがて彼が僕の頬に触れ、震える指先でゆっくりと僕の体温を確かめるようになぞった。
「生きて、いるんですね」
彼がかすれた声で呟く。
「はい。僕は、生きています」
冷たい月が僕たちを見下ろす。春にしてはひんやりとした空気の中で、僕たちは、時間と空間を共有した。この感情を特定の言葉で表現することは、到底できないように思えた。もし何がしかの言葉があったとしても、それを口に出すことはしてはならないとも、確信していた。
「先生、ありがとうございました」
「え?」
唐突に彼は僕に礼を述べた。
「さようなら」
え?
「俺、忘れません。先生のこと」
桜吹雪にさらわれて、彼の姿が急速におぼろげになってゆく。何が起きているのか、まったくわからなかった。
彼は、確かに微笑んで、もう一度だけ僕の頬に触れた。彼の指先は、やはり冷たかった。
「待ってくれ」
たまらずに僕は叫んだ。
「いかないでくれ、いかないでくれ」
しかし彼は、僕の叫び声に応じることはなく、桜の花びらが舞い終えるのと同時に姿を消した。
僕は、桜の花びらのじゅうたんの上に崩れ落ちた。
第五章 告白 へ続く