冷や汗で目が覚めた。目の前には、パソコンのモニターとファイルの山。それから小ぶりの置時計が時を刻んでいた。時刻にして午前三時半。
(なんだ……)
なんという夢を見たのだろう。若干、動悸が早くなっている。僕は白衣のポケットのメモ帳を取り出して見た。その文字に目を通して、彼がまだこの世にいることを確かめた気分になった。
顔を洗いたくなって、病棟内の洗面所へと向かうことにした。普段ならば当直室でこと足りるが、なんとなく足を運びたくなったのだ。夜勤帯の看護師には「代わりに見回ってきます」とだけ伝えた。
いつも患者たちが洗面や歯磨きをしている場所。水まわりは集中しているので、近くにはトイレも設置されている。僕はゆっくりと蛇口をひねって、二、三回顔を洗った。先ほどの嫌な汗が、少しだけ流れた気がした。夜の病棟はしんと静まり返っている。
だからこそ、僕はすぐに「その声」に気づいた。どこか苦しそうな、しかし一定の間隔で、息の漏れるような音がする。トイレのほうからだ。まさか、と、とっさに僕は男性用トイレを覗いた。
個室が一つだけ閉まっている。聞こえてくる息遣いは徐々に荒くなっていく。僕がその声の主が彼だと気づくのに、時間はかからなかった。僕はドアにそっと触れ、音楽でも聴くかのように彼の声に耳を傾けていた。
「篠崎さん……」
ほとんど独り言のように、彼の名前を口にした。よく考えなくたって、二十歳そこそこの男性がそういう行為に及ぶのは少しもおかしな話ではない。僕の声が届いた瞬間、個室の中から「あっ……」と声がして、すぐにトイレットペーパーが巻き取られる音がした。
僕はいたたまれない気持ちになった。僕の身勝手で病棟に彼を縛り続けている。その結果、彼の尊厳を傷つけてはいないだろうか、と。
僕が立ち尽くしていると、水の流れる音がして、個室の中から物音がした。僕は気まずさから、「すみません」と謝ってしまった。しかし彼は、こんなことをこぼした。
「俺、汚いでしょう」
「そんなこと、ないですよ。みんな、していることです」
「先生も?」
「はい、若い頃はしょっちゅう」
彼は僕のその言葉に、ドア越しでも少し安堵しているのが伝わってきた。しかし、聞こえてきたのはこんな言葉だ。
「俺は、やっぱりどこにもいないんです」
「そんなことない。ここにいるじゃないですか」
「誰もそれを認めない。だから、怖くなって、こんなことをしました」
これではまるで懺悔だ。彼には何一つ悪いところなどないというのに。僕はなんとか彼を励まそうと、冗談交じりに、
「僕の若い頃はまだ、スマホや動画なんて便利なものは無くてね。欲求一つ満たすのに、ずいぶんと苦労したものです」
と、ちょっとした告白をした。
「雑誌を買うにも、参考書と参考書の間に挟んで男性店員のレジまでこそこそ持って行ったり。でもその男性店員がクラスメイトのアルバイトだったりして。それでも我慢できずに買ってから後悔したり。あとは……」
僕が話していると、個室のドアが静かに開いて、彼が顔を出した。表情には、かすかに笑みがこぼれている。
「先生、赤裸々すぎます」
「ですよね。すみません」
僕がそう笑うと、彼もつられて破顔した。初めて、彼の心からの笑みを見た気がする。僕はその時の彼のことを、一生忘れないのだろうな。そう思った。
第六章 詩集 へ続く