例えば他の誰かに、自分を知ったような顔をされて何もかもを解剖されてしまったら、それを心地よいと感じる人などいるわけがない。そもそも、精神科医の仕事はそういうものではないと僕は考えている。
中にはあらゆる論理を用いて患者の尊厳まで侵襲するような輩や、うわべだけの信頼関係で患者を自分の都合のいいように誘導するような者も散見されるが、僕はそうありたくなかった。こと、彼に対しては、精一杯真剣でありたかった。もっとも、彼に月を見せないという点において、僕もまたそういった医師たちと大差ないのかもしれないが。
初夏が過ぎて梅雨入りが宣言された頃になって、僕の彼への対応を、エコひいきだと言い出した者がいた。小川朱音である。彼女は僕が篠崎隼人だけに時間を割いている、あるいは気持ちを傾けているという苦情をナースステーションで看護師にこぼし、それはすぐに僕の耳に入った。
「実際、どうなんですか」
看護師長の瑞江が僕に、率直にそう問うてきた。
「大島さんの一件でも、先生は篠崎さんを庇いましたね」
僕は返答に窮した。
「小川さんの意見は正しいと思います。先生の行動には少し、目に余るものがあるかと思います」
看護師長ともなれば、僕のような一端の医師など怖くなどないのだろう。目がすでに怒っている。
「だいたい、甘やかすだけですよ。患者はしっかり丁寧に管理しないと」
「あの日、彼はピアノを弾いていました」
「はい?」
僕は咄嗟に、彼と出会った日のことを口にした。
「音楽療法で使うでしょう、ピアノ。あれ、患者さんたちに開放できませんか」
その提案に、瑞江師長はさらに目くじらを立てた。
「絶対に駄目です」
それから瑞江師長のお説教が始まった。彼女はずっと何かをしゃべっていたようだが、僕の頭にはその内容は全然入ってこなかった。ただそれが終わるのを待ち、その間、心の中で「ランパトカナル、ランパトカナル」と唱え続けていた。
「へぇ。篠崎君は、楽譜が読めるの」
若干嫌味な口調で彼に話しかけるのは、小川朱音だ。僕が他の患者への対応を済ませてデイルームを通り過ぎようとしたとき、僕に聞こえよがしにそう発したようだった。
彼といえば、一冊の楽譜を広げて右手でピアノを弾く動作をしている。彼女の言葉など、相手にしていないようだ。
「ねぇ、ちょっと。聞いてるの?」
それは、暗に僕に向けられた言葉かもしれなかった。
「澄ました顔して、気取んないでよ。迷惑してるんだからね、みんな」
この「みんな」には誰が含まれるのだろう。
「うるさい」
彼の冷たい口調に、彼女は口をつぐんだ。そしてすぐに、やり場を失った感情を僕に向けてくるようで、こちらを睨むように振り返った。
「森下先生。先生はずるい」
「どうしましたか」
僕は努めて冷静に対応する。周囲の患者たちは見て見ぬふりをしている。当の彼は、夢中で空気のピアノを弾いていて、こちらに目もくれない。
「先生、言ったよね。私の詩集が出たら宣伝してくれるって」
そんな約束など、した覚えはない。だが、彼女の中ではそれが真実になってしまっているようだった。
「いつツイートしてくれるの?」
「ツイートはしません。SNSは一切しないです」
「じゃあ、先生は嘘つきだ」
「そう思いたければ、どうぞ」
「何よ! こんな奴のどこがいいの」
まるで恋人でも盗られたかのようなセリフだ。
「だいいち、いつも一人で楽譜だの難しそうな本だの読んで、これ見よがしによ? あー嫌だ。大学に行けなかった私への当てつけもいいとこ。それで何? 主治医も主治医でかわいがっちゃってさ。こんな頭のねじがやられてる奴、一緒の空気を吸うだけでこっちもおかしくなりそうよ!」
テーブルを打つ鈍い音がして、彼女はようやく言葉を止めた。彼がピアノを弾いていた右手を叩きつけたのだ。
「……うるさい」
僕は思わず彼の表情を見た。誰も見ていない、どこも見ていない、うつろな瞳が浮かび上がっている。これはいけない、と思った僕は、
「少し、クールダウンしましょう。小川さん、ナースステーションへどうぞ」
と彼女を促した。だが、
「私が悪いの? 私が? なんで?」
またも被害的になるその彼女に、突き刺すような一言を投げたのは、他でもない彼だった。彼は視線を中空にやったまま、
「目障り」
そう彼女に告げた。
その場が凍り付いたのが、僕にもわかった。デイルームの他の患者は見て見ぬふりをしている。何よりもその言葉は、彼女の被害者意識を助長するのに十分すぎた。
「ひどい! 聞いた? 先生! この人、人に向かって『目障り』だなんて言った、ひどすぎる! こんな奴、どっかに行っちゃえばいいのに!」
「小川さん、一緒にナースステーションへ行きませんか」
「嫌! どうせ薬を飲まされるんでしょう!」
騒ぎに気づいたナースステーションから看護師たちがバタバタとやってくる。腕っぷしの強そうな男性看護師も中にはいて、
「ちょっと、落ち着きましょうね」
そう声かけするが、その口調とまるで釣り合わない、乱暴な動作で彼女の腕を掴んだ。
「離して! 離してよ!」
ますます激昂する彼女に冷たい視線を送っていたのは、彼だ。
そのまま彼女は喚き散らしながら、ナースステーションへ連れていかれた。僕は彼女の主治医として、指示を出さねばならなかった――投薬と一時的な隔離の処置を。
そんなことよりも僕が気にかかったのは、彼の虚無感に満ちた瞳だった。このところ続いている梅雨空のせいだろうか、まったく覇気がなかった。小川朱音への対応を終えたのち、僕は再びデイルームに戻った。すると、やはり彼は楽譜を見ながら右手を動かしていた。
「何を、弾いているんですか」
「ベートーベン」
「何の曲ですか」
「……ピアノソナタ第14番嬰ハ短調」
僕の問いかけに、彼は静かに答えた。それを聞いた僕は、鈍い胸の痛みを覚えた。
「ピアノを、弾きたいですか」
「……はい」
「音楽療法のピアノを、みなさんに使ってもらえたらと思っています」
「結構です」
「え?」
「こんな場所では弾きたくない。ランパトカナルのよく見える場所で弾きたい」
「……」
それから数週間後、篠崎隼人の担当ソーシャルワーカーである住吉千里が、ケースカンファレンスでこんなことを言い出した。
「篠崎さんですが、入院形態が医療保護入院ですので、医療保護入院者退院支援委員会へ最初にかけたのが、今年の二月でした。入院が長引く恐れがありますので、退院後生活環境相談員である私からの提案なんですが」
住吉は、年の頃なら三十路手前の、まだ若い精神保健福祉士だ。
「篠崎さんの退院に向けて、ご家族も交えて具体的なスケジュールを立ててはどうでしょうか」
僕はぎくりとした。
「看護記録を読んでも、病状は落ち着いています。不可思議な言動は残りますが、日常生活に支障をきたす程度とは認められないと考えます。森下先生、ご許可を」
「……」
「森下先生?」
「わかりました、ではまずは任意入院への切り替えをしましょう」
いつかこんな日がくるとわかっていた。いつまでも彼をこの場所に閉じ込めてはならないことは、僕自身が一番。
「では、私はご家族に連絡を取ります。篠崎さんご本人との面談も、早いほうがいいですね」
「ええ、まあ」
僕の応答が曖昧なのを、看護師長の瑞江は見逃さなかった。
「森下先生、頼みますよ」
釘を、刺された。
第七章 過去 へ続く