第七章 過去

蝉の鳴き声に耳を預けながら、彼は中庭のベンチに一人座っていた。僕は彼を見つけると、「隣、いいですか」と声をかけて腰を下ろした。

「ここへ来て、もう半年になりますね」

ミンミン蝉の声がシャワーのように二人に降り注ぐ。夏の厳しい陽光も、容赦なく僕らを刺していた。

「単刀直入に訊きます。篠崎さん、退院したいですか」

彼は僕と目も合わせずに、

「俺に、選ぶ権利があるんですか」

とだけ答えた。

「あなたの入院形態を任意入院としました。あなたは自分の意思でここにいることも、退院することも、できます」

僕がそう告げても、彼は首を横に振るばかりだ。

「あるようで、まるで無い選択肢ですよね」
「えっ」
「両親は一度も見舞いに来ていない。大学の籍だって、もうないみたいだし」
「そんなこと……」
「住吉さんから聞きました」

僕は彼を直視することができなかった。それを、眩しさのせいにした。

「ここを出て行っても、俺に居場所はない。違いますか」
「ご家族には、僕からも連絡します」
「意味がない。そうでしょう」
「……」

蝉しぐれが、僕の戸惑いを誤魔化してくれたような気がした。


その日の帰りの車で、珍しくラジオをつけた。清志郎の「デイドリーム・ビリーバー」が流れていたので、それを口ずさみながら、環状七号線を走った。

前方で黒いバンがスピード違反で白バイに捕まっていた。対向車線の車が大音量でアイドルソングを流していた。通りすがったコンビニで小競り合いが起きていた。

どうでもよかった。目に入ってくる何もかもが、どうでもよかった。それこそ歌詞にあるように、「ずっと夢を見て」いたい気分だった。彼の抱えた絶望を、僕のような一介の精神科医にどうして拭うことができるだろうか。居場所がない、その不安と諦観は彼に深く根付いてしまったのだ。

何をしているのだろう。何を、望んでいるのだろう。僕は、どこまでも己の弱さに従順で、それを正当化するために立場を利用していたのだ。

空ばかりは饒舌で、急に暗くなったかと思えばゲリラ豪雨が降ってきた。ワイパーが悲鳴をあげる。まるで自分の代わりとばかり、きゅっきゅっと鳴いている。僕は小さく舌打ちすると、車を近くのコンビニに停めた。

タバコは数年前にやめた。精神科の患者の喫煙率は高いといわれている。それと関連があるかどうかは不明だが、精神科医の自殺率もまた他科に比べて高いといわれており、その理由ならば身をもって感じている。逆に、患者を研究材料として論文を書くという形で踏み台にして学会でのし上がってく同僚たちを、どこかで蔑んでいる自分がいるのも、自覚はしていた。今まで、何人かの患者には訊かれたことがあった、なぜ僕が精神科医を選んだのかを。その度に僕はこう答えてきた。

「自分を救うためです」と。

僕の母が自殺したのは、こんな大雨の日だった。外科医の父と看護師だった母の間に二番目に生まれた僕は、父と兄のあとに続くべく医学部を目指して猛勉強をしていた。その年は冷夏で、しょっちゅう大雨に見舞われていた。

その日は父が当直、兄も研修中で不在だった。その日の夜遅く、塾から帰ってきた僕は、手を洗おうと洗面所に向かった。「ただいま」に返事はなかった。風呂場から雫の垂れる音がした。風呂でも沸かしていたのだろうか、それにしては風呂場に電気がついていない。ほとんど直感的な悪寒が僕を襲った。

ドアを勢いよく開けると、そこには手首を湯船につけて横たわり、薄目を開けて息絶えた母の姿があった。その場を支配していた赤色は、今まで見てきた何よりも鮮やかに、僕の網膜に焼き付いた。自分が一体どんな声をあげたのか、果たしてあげられたのか、今でも思い出すことはできていない。ただ、うまく泣くことができなかったことは、息苦しい記憶として残っている。

そんな自分の傷と向き合うため、学生時代には精神医学の本を読み漁った。だから医学部に進学後は、おのずと精神科の道を選んだ。父にはいい顔をされなかった。兄にも軽蔑をされた。なんとなく、母が自殺を選んだわけが分かった気がした。

僕の心に棲みついた孤独は、誰とも分け合うことができない。異性との交際も避けたし、バカみたいな交遊も意識して遠ざけた。周囲からは偏屈者で通った。その方が、気が楽だった。そうして精神科医になって、多くの人の悲しみや苦悩、葛藤や抑圧に触れるにつけ、自分の痛みなど大それたことではないと言い聞かせてきた。

ところが、精神科医療の現場は決して癒しになるような場所ではなかった。保護という名の隔離、大量投薬、身体拘束、職員による日常的な暴力……。僕は見て見ぬふりをしてきたばかりか、医師としてそういう環境に身を置くうちに、朱に交わってしまったらしかった。患者たちの切実な訴えも、「死にたい」というSOSも、何もかも「雑音」に聞こえるようになっていたのだ。僕はすっかり、自分の傷を持て余して日々をやり過ごしてきた――彼と出会うまでは。

今なら、なぜ精神科医になったかと問われればこう答えるだろう。「彼に出会うため」と。彼に居場所がないのではない。僕がここにいる限り、僕が彼から居場所を奪っているのだ。そう気づくのに、時間はかからなかった。この苛烈な夏が過ぎる前に、僕は病院を辞めよう。そう決意した。

過日の嘘(一)夕立 へ続く